「これは、私のいう救いの第一章的なことなのですが、つまりどういうことかというと、お互いに幼児性を認めるということは、弱さを認めるということです。やはりお互いが弱いというところで、共感できるものがあるのです。…
しかし、そういうお互いの弱さ、もろさにおける共感というものですごしているうちに、しだいにそれでは満足できなくなってくる。そういうものなのです。つまりそこでもっと高い、もうひとつ上の次元でお互いに共感を持ちたい、もっとほんとうに自分自身救われたい、こんな気持ちになってきます。そういう気持ちになってきますと、現在の自分のいろいろな悩み、苦しみ、もだえ、毎日ガタガタやってる自分の煩悩の存在、自分の煩悩はどういうものであるか、その性質をはっきりわからなくても少なくとも何か感じるわけです。そして、自分の弱さについてわかってくると、これをなんとかしたいという気持ちがおきてくる。その気持ちが最初に起きることが、次の段階にいくために必要なわけです。私たちは、これをなんでもないように思いますけれど、とても大切なことなのです。
だいたい、我々はもし煩悩だけ、欲望だけの器であるならば、永遠にその欲望を追求していっていいはずです。そういう人間であるならばね。けれども、その煩悩を追求していくうち、ふっと自分自身の煩悩の果てに虚無感が現れてきます。何かつまらないような、しらけた気分になったり、あるいは苦しくなったりします。そのとき、その苦しみをじっと見ているうちに、自分はこんな煩悩を持っているんだなーと、しみじみ感じさせられてくる、そう感じさせるものが我々のなかにある、それは私は不思議といいたい。それは私たちのなかに授けられた力であり、能力であります。私は自分自身の経験からいっても、他の人々の経験からいっても、このような力が人間のなかに深いところで働いているということを感じるのです。これを不思議といいたい。どうしても、なぜであるかわからない。そうしたものにどうして目が開くのでしょうか。
我々はほんとうは愛欲に狂い、金銭を追求し、営利を追求し、そうしたもので所有欲を満足するわけです。その人間がどうして自分自身を省みる、そうした力があるんでしょうか。…反省するとか、自分自身というものについて考えるとかいいますけれど、我々としては、こういうことは不快なことです。本来は楽しいことをやりたいと願う人間が、いやなこと、不快なことをなぜやるのでしょうか。これはたいしたことないようですが、出発点といいますか、その人間の精神の新しい次元に到達するために、ほんとうに救われるための次元に到達する最初の大事なところだと思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

(前回の「その22」からの続きです。)
お互いの弱さを認め、共感の世界にいる ー それだけでも大いに救われた気になります。
しかし、それは救いの第一章。
弱さに浸り、煩悩に浸り、ただ欲望を追求し、快楽に溺れていればいいものを、我々は何故かしら、そこに虚しさを感じて来る。いや、虚しさを感じさせられて来る。
それを内省せざるを得ない。見つめざるを得ない。それが不快な、時にしんどいことであるにもかかわらず。
そういう力が我々の中の深いところに働いている。
不思議ですね、本当に。
そしてそうなって初めてそこに救いの第二章の扉が開かれて来ます。
そうして、勘の良い方はお気づきでしょう。
本当の「情けなさの自覚」は、この力によるものだったのです。

 

 

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