もう30年以上前のことになるが、私が研修医になった年の秋、初めて週1回の関連病院パート勤務が始まった。
行ってみると、超長期入院の患者さんばかりの担当になっていた。
思うに、新人には状態の安定している患者さんを、という配慮だったのであろう。
そしてカルテを見て驚いた。
とにかく書いてない。
それまでカルテ記載は、月に1回の診察で毎回ドイツ語で「stationär」(変わりなし)の1語(1行)のみ。
新人研修医でも流石に、それはおかしいだろう、と思った。
人間がひとり、1週間生きていれば、絶対に何かがあるに決まっている。
意地でもそれを見い出して、毎週カルテに書いてやろうと思った。
そしてそういう姿勢で診察に臨むと、最初は何も話してくれなかった患者さんたちも次第に思いの内を話して下さるようになった。
そうなると、さらにカルテに書くことが増えて行く。
そうこうしているうちに段々と、なんでこの人はこんなに長く入院しているのだろう、などと思うようにもなって行った。
当時の原点に始まって今日に至るまで、変わることなく思うのは、その記録が、その人がこの世に生きて来た証しとなる、ということである。
そう思うと、あんまりいい加減な記録で済ますわけにはいかなくなって来る。
それはカルテだけではない。看護記録、介護記録、訪問記録、面接記録、作業記録などなど、何でもそうである。
時々、なんとか空欄を埋めただけの空疎な記録、怒られない程度に何か書いたフリの記録、コピペで済ませた毎回ほぼおんなじ内容の記録などを見るとガッカリする。
そりゃあ、とても業務が忙しかったり、担当する患者さん、利用者さんが多く、記録を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も毎回そんなに立派な記録を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、1行でもいい、なんなら1語でもいい、何かキラッと光るもの、その人(患者さん、利用者さん)の存在が伝わるものがある記録を書こうとするということである。
それだけは対人援助職の後輩たちにお勧めしておきたい。
そしてそうすることで、有り難いことに、我々対人援助職者の“感性”も常に磨かれ続けて行くのである。