ある臨床心理士の書いた発達障害に関する文献を読んでいたら、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」として、子どもの「強み」として感じられることを「意識しながら伝え直して終了」すると書いてあった。
その理由として、親御さんの中には、子どもの発達歴を振り返ることで、自分の育て方に問題があったのではないか、本人の困り感にちゃんと気づいて対処してやれなかくて申し訳ない、と自責の念を抱いている人もいるからだという。
そして、そのような気持ちを払拭するために、面接の最後は、子どもの「強み」の話や、親御さんが感じている子どもの「肯定的な面」を「意識して」伝え直して、気持ちよく終了へと導いていくというのだ。
この文献は。そこまでは非常に優れた内容で、大変勉強になったのだが、この点だけはガックリと失望した。
発達障害の臨床的知見については優秀なのだが、サイコセラピー的な面となると、根本的な間違いを犯している。
まずひとつには、「強み」「肯定的な面」と称して、具体的には、お子さんはこういうところは苦手だけれど、こういうところは優れている、などと伝えていく点である。
その背景には、やっぱりできる方が良くて、できない方がダメだ、という能力主義的な発想がある。
そこが大問題なのだ。
例えば、一部の専門家が、「サヴァン症候群」と称して、自閉スペクトラム症の人たちが、一方で障害を抱えながら、他方で非常に優れた能力を発揮することを取り上げている。
その背景にも、こんな障害がありながらも、こんなことができるなんてすごい!という価値観が臭う。
やっぱり、できてなんぼ、なのである。
じゃあ、同じ自閉スペクトラム症の人たちで、サヴァン症候群でない人たちはダメなのか?
私はいつも重度心身障害児病棟で出逢った子どもたちのことを思い出す。
最重度の子どもたちのどこに、他の子どもたちよりも優れた「強み」や「肯定的な面」を見い出せというのか。
なんのことはない、この臨床心理士自身が、実は能力主義(=できる方が優れている)者だったのである。
何かが苦手な障害者の方々に接するのが我々の仕事である。
いい加減、能力主義というとらわれから脱しようよ。
息をして心臓が動いているだけで、どれだけ尊いか、人間の存在の絶対的価値を本気で体感しようよ。
まず能力主義へのとらわれが第一の問題。
そして次に、それが親御さんの自責の念を払拭するためであるのならば、そんな迂遠な、まわりくどいことをせず、はっきりと親御さんの眼を見て、「お母さんの育て方のせいではありません。ご自分を責めないで下さい。」「何も教わっていない非専門家がちゃんと気づいて対処することは不可能です。教わらない中で、支えられない中で、お母さんはお母さんなりの一所懸命でやって来ました。」と明確に告げるべきだと私は思う。
自責の念を払拭するために、子どもの「強み」や「肯定的な面」を挙げるのは、迂遠過ぎる、というのが第二の問題。
そして第三に、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」というのがどうしても引っかかる。
「方」かい!
やっぱり how to なのである。方法なのである。操作なのである。
そうじゃないでしょ。
そんなうすっぺらな「やり方」ではなく、目の前の親御さんに対する思いの出どころが、「ああ、このお母さんにも幸せな人生を歩んでもらいたい。」「母親である前に、一人の人間として自分を生きて行っていただきたい。」などという思いがあれば、言葉なんてもうどうでも良いのである。
近藤先生の言葉を借りれば、親御さんの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って接することができれば、もうそれでいいのだ。
肝心なそれがなく、「終わらせ方」という「操作的」な「やり方」に堕しているのが第三の問題である。