道の角に小さな石仏があった。
今は住宅地の世田谷も、かつて田畑や林に覆われていた名残であろう、散策していて不意に道端の石仏に出逢うことがある。
大体は四角柱の一面に仏像がレリーフ状に彫られた小さなもので、その何とも言えない拙さから、専門の仏師の手によるものではなく、名もなき農民が彫ったものであることが容易に察せられる。
たとえ技術的に拙いものでも、長い間多くの人に拝まれて来た仏像には、独特の霊的風格が宿ってくる。
そしてある日、その角にさしかかったところで、3歳前くらいの女の子がその石仏に手を合わせている姿が見えた。
親に教わったのか、たまたまそうしたい衝動に駆られたのか、しかし、一心に拝んでいるその姿は、あたかも仏が仏を拝んでいるように観えた。
ふと気がつくと、その女の子の斜め後ろ数メートルのところに、80代と思しきおじいさんが立っている。
そしてそのおじいさんもまた手を合わせて拝んでいた。
その角度から、そのおじいさんが手を合わせているのは、石仏に対してではなく、その石仏と女の子の両方であることが見て取れた。
ああ、私と同じことを感じているんだな。
そしてそういう私もまた、その石仏と女の子とおじいさんに対して手を合わせていた、というより、自ずと手が合わさった。
さらにこの一仏と三者の姿に気がついた四番目の人がいるかもしれない…キリがないな。
「唯佛与佛乃能窮盡(ゆいぶつよぶつないのうぐうじん)」(『法華経』)
ただ仏のみが真実を究め尽くすことができ、凡夫にはできないというけれど、
ふと凡夫が仏になる瞬間があることを、そして本来仏であったということを、忘れてはならないと思う。