当研究所の「人間的成長のための精神療法」を受ける要件として、「情けなさの自覚」ということを挙げている。
即ち、面談希望者に、自分に問題がある、解決すべき成長課題がある、という自覚を要求しているのであるが、何故これを求めているかというと、それがないことには、人間が成長しない、伸びしろがないからである。
言い換えれば、自分には問題がない、解決すべき成長課題がない、と思っている人が、真摯に自分と向き合えるわけがない。
その能天気さというか、思い上がりというか、そういう自己認識でいたいのであれば、痛くない腹を探られたくはないだろう。
そう。
そもそも痛くないのである。
そして、我々がある程度の自覚を持って、自分に問題がある、解決すべき成長課題がある、と思ったとしても、それはまだ氷山の一角に過ぎない。
自分が気づいているよりも、遥かに多くの、そして、遥かにひどい問題が存在する。
それこそ、ラスボスが出て来るまでには、たくさんのステージをクリアして行かなければならないのだ。
そうすると、自分が気づけているよりも自分は遥かにひどいらしい、という自覚を持った方が良い、ということになる。
それが「情けなさの自覚」よりも、ちょっと深い「凡夫の自覚」である。
基本的に我々は、愚かなくせに愚かだと気づいていない。
ちょっと気づいたくらいで、すぐに自分の愚かさをわきまえているようなフリをするが、その実態は、本人が気づいているよりも何倍、何十倍、何百倍、…何億倍、何兆倍もひどいのである。
かつて近藤先生は
「自分のような者が…」
という表現をしばしば使われたが、それはよくある謙遜のポーズではなく、本気で言っておられることが伝わって来た。
また、八十代になられてからも、当時三十代の私に
「もし僕が間違っていたら、教えてくれよ、松田くん。」
とこれまた、本気でおっしゃっていた。
そこに「罪業深重、底下の凡夫」という自覚がある。
だから、永遠に成長できる。
成長させていただける。
救っていただける世界が展開して行く。
だから、誤解なきように。
「凡夫の自覚」の行き着くところは、地獄のような自己卑下の世界ではなく、浄土のような成長と救いに満ちた世界なのである。