そこでまあ、その安全ですけども、皆さん、どう考える? これはもう人間のね、子どものときに、僕は、そう思うんですね。子どものときに、母親のね、胸に抱かれて、こうやってるときにね、あれはね、なんとも言えない、安らかな感じがしますよね。あれは素晴らしい安全感だと思うんです。子どもにとって安全感ぐらいね、大事なものはない。このことを言い始めるときりがないですけどね、子どもの問題としてね。それがないためにどんなに、いろんな問題が起きてるかわからない。
そういうふうなことが、例えば、私の、ひとつの例を挙げれば、今、小学校の3年になる女の子が、登校拒否を始めた。何故か? それは、嫁と姑がいるんですね。その間がガッチャンガッチャンやったわけです。で、お母さんが、もうこんなところにはおれないから、私は出て行く、とこう言ったわけだね。それを子どもが聞いてたわけですね。そうするとね、すごく不安になるわけですよね。そのためにね、学校に行ってる間に、もしやお母さんがどっかに行っちゃうんじゃないか。それでね、学校に行かないでお母さんの傍にくっ付いたままでいるんですよ、こうやって。それが登校拒否の原因だと。つまり、自分にそういった安全がなくなるということ、お母さんについてね。まあ、そんなことを、まあ、ひとつの例で挙げますけどね。
そういう安全感というのは、子どものときから、そういうものがずっとあると思うんですよ。けどね、そのために、さっき言ったように、我々は大人になっても、自分の安全を守るためにいろんな方法をしてるわけなんですけどね。一体、安全というのは何のためにある。もう一遍考えてみる必要がある、と私は私のとこにいらっしゃる方に言うんですよ。僕はよくわかりますと。僕だって安全っていうことを考えますと。しかし、安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか、いうようなことを、まあ、訊いてみるわけです。これはまあ、いろいろ、皆さんも議論があると思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもにとっては、まず自分の心身の安全は最重要事だと思います。
そうでないと、小さくて弱い子どもは生きて行けません。
そしてそのときに覚えた自分の安全の守り方が、大人になってからも自分の安全の守り方のベースになって行きます。
その安全の守り方が、健全なものだと良いのですが、残念ながら多くの大人が身に付けているのは、前回取り上げた「神経症的人格構造」ということになります。
おかしなことをやらかしてでも、自分の安全を守りたい。
事程左様(ことほどさよう)に、人間というものは、自分の安全が大事というわけです。
そこで近藤先生は、疑問を提出します。
安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか。
まあ、すごい質問をさらっとおっしゃるもんだ、と初めてこの講演テープを聴いたとき、私は唸ったのを覚えています。
皆さん、答えられますか?
私はすぐにイエス・キリストのことが思い浮かびました。
吉田松陰のことが浮かびました。
坂本龍馬のことが浮かびました。
自分の安全よりも、殺されてもなお果たすべきミッションがある。
そもそもそのために授かった生命(いのち)であったと。
何も死ねば良いと申し上げているわけではありません。
いざとなったら、安全とミッションとどちらを取りますか、という問題であり、
そもそもあなたは自分のミッションが何かを見い出していますか?という問題です。

そういうことがわかって初めて、安全を守ることが第一の子どもの生き方から、ミッションに生きて死ぬ大人の生き方への成熟があるんじゃないか、と私は思っています。

 

 

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