『山越阿弥陀図(やまごえ/やまごしあみだず)』を御存知だろうか。
凡夫が往生の際、阿弥陀仏が観音菩薩や勢至菩薩などを従え、極楽浄土から山を越えて往生者を迎えに来る、という場面を描いたものである。
(先日、東京国立博物館で開催された『法然と極楽浄土』でも『山越阿弥陀図』が展示されたが、検索されればいくつかの種類のものを見ることができる)。

で、まず、私が気になったのは、越えて来る「山」とは何かということである。
確かに、仏教伝来以前から山岳信仰のある我が国においては、「山上他界観」という伝統があり、阿弥陀が他界(極楽浄土)に向かう死者を待ち受けているという解釈は一理あると思う。
しかし、それはやはり「解釈」であり、「理」なのだ。
よくできているが、そこには、真に煩悩に苦しみ、念仏した者でなければわからない「体験」がない。

で、改めて、念仏して越える「山」とは一体何なのだろうか

念仏=南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に自分を投げ出すということである。
そこに越えるべき「山」がある。
即ち、自分を、「自我」を捨てなければ「山」は越えられないのだ。
「自我」という「山」がそこに立ちはだかっている。
従って、「自我」を捨てて初めて、自分を救う力=阿弥陀仏に包摂され、極楽浄土に迎え取られることになる。

いやいや、さらに言うならば、そのとき初めて、実は自分が無始以来既に救われており、極楽浄土にいたことに気づく。
越えてみれば、元々「山」はなかったのである。
これが「体験」によってわかる。
それが「山越阿弥陀図」の「山」の示すところなのだ(と私は思う)。

しかし残念ながら、凡夫の前には、高い高い「山」が現前する。
我々凡夫の「自我」は相当にしぶとい。
これをどないせえっちゅうんじゃ。
やっぱり凡夫のできることは、助けて下さい、と念仏するしかないのである。

 

 

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