クライアントと話していて時々出逢うのが、妙に“カウンセリング慣れ”した人たちがいることである。
そのカウンセリング歴について訊いてみると、なるほど小学校からスクールカウンセラーに相談して来たという。
スクールカウンセラー制度ができたのが 1995(平成7)年だから、小学校・中学校と相談し、その後、高校、大学でも相談して来たという人もいるわけだ。
その点を取り上げれば、カウンセリングを利用するということが一般的になって来たわけであるから、これは間違いなくスクールカウンセラー制度の功績であり、歓迎すべきことであろう。
しかし、“カウンセリング慣れ”ということからすると、抵抗なくカウンセリングを利用するようになったのは良いのだが、どうも話を聴いていると、カウンセリングをただの愚痴垂れ流しの場、何を言ってもただそれを聞いてもらえるだけの場と思っている人たちが少なくない印象がある。
そしてその理由も、すぐに想像がつく。
恐らく Rogers“的”な(本来 Rogers が言っているものとは異なる)形式的“傾聴”のカウンセリングを受けて来たのね。
それだと、カウンセリングが、愚痴の垂れ流しの場、何を言ってもただそれを聞いてもらえるだけの場だと思うようになっても致し方ない。
しかし、それでは今の弱さ、ダメさの肯定に終わりやすく、未来の成長がない、どんな環境にあろうとも自分自身を生きて行こうとする“勁さ”が育たないことになる。
時にスクールカウンセラーは、確固たる“人間観”“成長観(治療観)”を持ってクライアントを導かなければならない。
それがあるだろうか。
あったとしても、それが一人の人間が自分の人生だけで考え出した(申し訳ないが)狭量で時に独善的な“人間観”“成長観(治療観)”であっては、却って有害である。
だからスクールカウンセラー自身も、ちゃんとした先達から、ちゃんとしたトレーニングを、知識・技術だけではない人間としての成長のトレーニングを受けることが必要だ、と私は思っている。
それについては、関連の協会、協議会などの研修も行われているが、知識・技術的でしかも集団かつ座学のものが多く、わざわざ個別のスーパーヴィジョンや指導を受けている人は稀で、現在、当研究所で面談を受けている方々などは、かなり奇特な人たちと言えよう。
でも、それくらいやらないと、なかなか深まらないのだよ。
別に、みんなうちに来い、なんてそれこそ狭量で独善的なことは言わないから、自分に合ったところを見つけて、信頼できる先達を見つけて、もっと個別なスーパーヴィジョンや指導を受けた方が良いんじゃないかなぁ、と私は切に思っている。
それが、あなただけのことに留まらず、あなたのカウンセリングを受ける子どもたちの未来に直接、影響するからね。
スクールカウンセラーが担っているのは、尊き重責なのだ。
スクールカウンセリングがそんなに簡単に行かないことは私も知ってるけどさ、
それでも、折角の、子どもたちを救い、育てるためのスクールカウンセラーなんだもの。
せっせせっせと自分を磨いて行きましょ。