子どもがやらかすことに対して、こっぴどく怒ってしまう。
そして怒った後、子どもの寝顔を見て、涙ながらに反省するが、次の日また子どもがやらかすと、またこっぴどく怒ってしまう。
また、高齢の親がやらかすことに対して、こっぴどく怒ってしまう。
そして怒った後、しょぼくれた親の様子を見て、死ぬほど反省するが、次の日また親がやらかすと、またこっぴどく怒ってしまう。
あるあるの話である。
この負のループを抜け出すにはどうしたら良いのか。
そもそもの人間観に戻ろう。
我々は天より与えられた尊い生命(いのち)を持つ。
それが我々の存在の根底にある。
その生命(いのち)の力によって我々一人ひとりの「本来の自分」「真の自己」が発現して行く。
これがひとつ。
しかし、その後、我々の置かれた(我々が選べない)生育環境の影響によって、そこで生き残るために、後から身に付けざるを得なかった「ニセモノの自分」「仮幻の自己」が、その「本来の自分」「真の自己」のまわりを覆って行く。
これがふたつ。
この闇が光を覆うような二重構造が、我々の基本的な人間観である。
よって、子どもがやらかすこと、高齢の親がやらかすこと、それは概ね後者=「ニセモノの自分」「仮幻の自己」に基づいている(ただ幼いから、ただ高齢だからやらかすこともあるが、責めるときに火が付くのはそこに「ニセモノの自分」「仮幻の自分」のイヤ~な感じが臭ったときである)。実際、その言動の大体が可愛くないし、生意気だったりする。
となれば、それを突く、怒ることが、絶対的に悪いことだとは思えない。それを、いいよ、いいよ、で済ましてしまうことにも問題がある気がする。
事の本質はそこではないのだ。
その「ニセモノの自分」「仮幻の自分」を責めるとき、あなたは、そこ奥にある「本来の自分」「真の自己」、さらには相手の「生命(いのち)」に対する畏敬の念を忘れてはいませんか?ということが問題の核心である。
それが抜ける。となれば冷酷な滅多切りとなる。
そうではなくて、表面の闇を斬るが、中心の光は斬らない。
いやむしろ、表面の闇を斬って、中心の光を導き出す。
本当の叱責とは、そういうことをいうのだと思う。
従って、大切なことは、いつも相手の生命(いのち)に対して、存在の根底に対して、畏敬の念を持ち、手を合わせて頭を下げる=合掌礼拝する姿勢を忘れないことである。
その上で表面の闇を斬るとき、我々に、あのやるせない後悔の気持ちは起こらない。
また斬られた方も、斬られたのは表面の闇であって、中心の光に対してはちゃんと畏敬の念を持って接してくれていることを感じるので、斬られた方も深い傷を負うことがない。
ここが大切なところである。
(これは以前に書いた『金言を拾う その9 溝をつける』に通じる話である)
さぁ、今から実践しましょう。
1回、2回では変化を感じないかもしれませんが、何回も何回も積み重ねて行くうちに、感触がちょっとずつ変わって行くかもしれませんよ。