「三省」という言葉がある。
『論語』の中で、孔子の弟子の曾子(そうじ)が、一日のうちに三回反省した、という話から来ている。
「曾子曰(のたま)わく、吾(われ)、日に三たび吾が身を省(かえり)みる。人の為めに謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。」
(曾先生がいわれた。「私は毎日三回、自己反省する。他人の相談に、まごころをこめて乗ってやらなかったのではないか。友だちとの交際に、約束をたがえたのではないか。先生に教わったことを、じゅうぶん復習せずに君たちに教えてしまったのではないか」)(貝塚茂樹訳注『論語』中公文庫)
前々から思っていたことであるが、『論語』の中に収められている言葉のうち、孔子の言葉と孔子の弟子たちの言葉とでは明らかな“格”の違いがある。
個人的には『論語』は、孔子の言葉だけで良いんじゃないかと思っている。
この「三省」などは、その良い例で、一日三回、意図的に、気をつけて、反省する、というのであるから、結局は、反省したいことしか反省せず、一番反省した方が良い“痛い”ところは、無意識に回避されることは、火を見るより明らかである。
その上に、自分は一日に三回も自らを反省=自省している、なんて謙虚なんだろう、という“不遜な”自負も生じやすい。
確かに、「三省」もしないよりはした方がマシであろうが、本当の自省はそんなものではない。
そもそも「自省」は、「自(みずか)らを省みる」のではなく、「自(おの)ずから省みる」と訓(よ)む。
自力で内省するのでなく、他力によって内省させられるのである。
そういう内省は深い。しかも的を射ている。
どんなに痛いところも、容赦なく内省させられることになる。
それこそが本当の内省である。
そして、成長することができる。
そう。
他力によって内省させられるということは、他力によって成長させていただけるということなのだ。
これを儒教風に言うと、他力ではなく、天の力と言えば良いのだろうか。
そして、自ずから内省させていただき、自ずから成長させていただくにはどうしたら良いのだろうか。
それは既にお伝えしているはずだ。