…と昨日で話は終わりではない。
長くなっても書かなければならない続きがある。
南無阿弥陀仏で「自我」を捨て、阿弥陀におまかせするところまでは書いた。
それで「山」を越えることについても書いた。
で、お気づきであろう。
それって、凡夫の方から「山」を越える話なのである。
改めて『山越阿弥陀図』を見る。
そうではなくて、阿弥陀の方から「山」を越えて来て下さっている。
ああ、そうだったのか、と嘆息する他ない。
自分から「山」を越えることのできない、「自我」を捨てることのできない、このバカのために、このクズのために、この凡夫のために、阿弥陀の方から「山」を越えてまで、迎えに来て下さっているのである。
我々の「自我」を超えた救いの働きを、一方的に、全く途切れることなく、永遠に与え続けていて下さっている、こっちがどんなにポンコツでアンポンタンであっても。
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず
(親鸞『正像末浄土和讃』)
そのダイナミックな働きを表しているのが『山越阿弥陀図』の真意である(と私は思う)。
よって私は断言する。
『山越阿弥陀図』は静止画ではない。
動いて観えなければならないのである。