認知症の中に、前頭側頭型認知症という疾患がある。
さまざまな症状があるが、特に抑制欠如(自制心や羞恥心を欠く言動、道徳感情の低下など)や反社会的行動(性的逸脱行動、万引きなど)を引き起こす人格変化で知られ、対応はなかなか大変である。
ある文献に「それでもどこか憎めないところがある」と書いてあったが、日々対応と謝罪に振り回されていたある妻は「憎めます。」とはっきりおっしゃった。
また、発達障害の中に、注意欠如多動症(AD/HD)という疾患がある。
その中でも、多動-衝動性が優勢なタイプは、離席、飛び出し、走り回り、高い所に上り、しゃべり続け、順番が待てないなど、じっとしていないため、目が離せず、対応はなかなか大変である。
これまたある文献に「それでも子どものやることなので憎めない」と書いてあったが、日々対応と謝罪に追われていたあるお母さんは「憎めます。」と涙ながらにおっしゃった。
これは障害のある大人/子どもについてだけの話ではない。
あなたの身近な大切な人のことを思い浮かべてみよう。
憎めるところは本当に皆無だろうか。
絶対に永遠に微塵もないと言えるだろうか。
ここでもう一度思い出してみよう、人間存在の二重構造を。
人間存在の表面を、このような症状、そして症状でなくてもその人が生育史の中で身に着けたろくでもない思考パターンや言動パターンが覆っている。
それらはなかなかに大変なものである。
よって、それらに基づく言動は、憎める。むかつく。十分に憎々しいと言える。
抑圧や偽善を使うか、あるいは、余程鈍感でない限り、憎めて当然である。
しかし、人間存在はそれだけではない。
二重構造の奥、人間存在の根底には、大切な生命(いのち)がある。
それは単なる生物学的な生命ではなく、その人を存在せしめる働きの源としての生命(いのち)である。
これは無条件に尊い。絶対的に尊い。とても憎めるものではない。
だから、前頭側頭型認知症の夫や注意欠如多動症の息子の寝顔を見たとき(寝ているときはその症状には苦しめられない)、あんなに怒った自分がイヤになり、ついその寝顔に手を合わせて謝ったりするのである。
つまり、人間存在の表面はどこまでも憎め、人間存在の根底はどこまでも尊い=憎めない、これが両立するのである。
ここを押さえておかないと、よく見かける負のループに陥る。
即ち、毎晩、寝顔を見ながら、ああ、明日こそは怒るまい、と誓いながら、やっぱり翌日も怒ってしまい、自責の念に苛まれる。
怒るまいと誓うことが無理なんです。
何故なら、存在の表面の問題はなくならないから、怒るネタは尽きません。
それよりも、怒ってかまわないから、憎んでかまわないから、ちゃんと存在の根底に対して、手を合わせて頭を下げましょう。
それしかないんです。
だから
憎めるけど憎めない。
むかつくけど尊い。
それが人間存在の実相。
だから(その存在の表面を)憎んでいいんですよ。
でも必ず(その存在の根底に対して)手を合わせて拝みましょうね。