赤ちゃんが初めて立つ。
発達段階からすると生後9~10カ月頃である。
すると両親は喜ぶ。
なんだか知らないけれど、手を叩いて喜んだりする。
そして11~12カ月を過ぎる頃になると、初めて歩けるようになる。
これまた両親は喜ぶ。
まるで世紀の大偉業を達成したかのように喜ぶ。
そんなときに
「ちょっと立てたくらいで良い気になるなよ、おまえ。」
「歩けたぐらいで図に乗るな。お父さんは走れるんだぞ!」 
と言う親はいない。
また、幼い子どもの程度はこんなもんだから、これくらいのことでもちょっと褒めておいてやるか、と思ってやっているわけでもない。
そこに子どもへの愛があるから、そんなささやかなことでも心の底から本気で喜べるのだ。

翻(ひるがえ)って考えてみるに、私たちは大きくなった子どもたち、そして大人たちに対して、そのような姿勢で関われているだろうか。
裁いて、怒って、残酷に斬って捨ててはいないだろうか。
時に何らかの障害のある家族、認知症の親、伴侶に対してさえも、我々は容赦なかったりする。

そこで、大きくなった子どもたちや大人たちに対しても愛を持ちなさい、と言いたいわけではない。
実は、幼い子どもたちに対して愛が持てたのも、意図的努力の結果ではなかった。
なんだか知らないけれど愛が湧いて来てそうしていたのである。
私は、愛は人間業(わざ)ではない、と思っている。
我々を通して働くものだから、努力もなしに幼い子どもたちを愛することができたのだ。
だからね、愛がないなぁ、と思ったとき、反省会を開いて、次から愛そうと決意したところで何の役にも立たないのである。
人間の意図的努力では、舌の根の乾かぬうちに、またすぐに相手を裁いて、怒って、残酷に斬って捨てるに決まっている。
それは御存知の通り。
だから祈るのである。
私には無理ですからお願いします、おまかせしますと、繰り返し繰り返し。
そうしたら、もしかしたら、ひょっとしたら、あなたを通して愛が働くかもしれない。
どうやったって自力でできないんだから、そうするしか道はないのでありました。

 

、ゝ
 

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