「いままでお話した、色々の欲望の挫折というものを、西洋ではフラストレーションといってそれを、苦しみと一応は考えています。欲求の不満が苦しみ、欲求の挫折が苦しみということであります。しかし、私は、自分自身でずっと考えてみて、苦しみや悩みというものの分析については、仏教の右に出るものは他にないと思うのです。たとえば欲求不満というものを、仏教ではとっくの昔にいっているわけです。
求不得苦(ぐふとっく)
五陰盛苦(ごおんじょうく)
愛別離苦(あいべつりく)
怨憎会苦(おんぞうえく)
四苦八苦という言葉があるのをご存知でしょう。たとえば欲求不満というのをどのようにいっているかというと、求めて得ざる苦しみ、欲求が満たされないことでしょう。この欲求不満ということを、フロイトがいろいろいう前に仏教では、そういう苦しみがあるということを教えているわけです。『求不得苦』というとわからないけれど、これは「求めて得ざる苦しみ」ということです。もう少し仏教の分析を話したいと思います。先ほど、私がいった欲望を追求していきますと、だいたい私たちの欲求は感覚的なものです。それをどのようにいっているかといいますと、『五陰盛苦』といいます。五陰とは、五感ということで私たちの感覚ということです。その感覚からくる欲望が盛んだと、苦しむというわけです。このことは、改めて認識してもらいたいことだと思います。
自分の好きな、愛しているものから別れて離れなくてはならない。どんなに好きでも思い切らなくてはならない、好きでも一緒になれない苦しみ、そういうものがありますね。『愛別離苦』ー これは異性の場合だけではない。自分の父や母や子ども、すべて自分が愛情をかけてるもの、愛情を感じているものから別れていく、離れていくこの悲しみ、苦しみ、そういうことをいっているわけです。
こういうことは我々にとってよくあるでしょう。執着するから、愛執とか、愛着とかいいますね。それをにぎりしめて、所有して、どうしてもそれを奪われたくないという気持ちですね。しかし、いろいろなことで奪われる。自分の非常に大事な子どもを病気によって奪われていくとか、自分の愛人を人にとられるとか。いずれにしても日常茶飯におきている出来事のなかに、愛を中心とした執着、愛するものをなくす、また愛するものと別れる悲しみ、これらは私たちの生活における重要な苦しみなんですね。
それからもうひとつ、自分がうらんだり、憎んだりしている、いやな人と会わなければいけない苦しみ ー 姑と嫁もそうですね。毎日毎日顔をつき合わせて、お互いにいやだなあーと思っている。いやだなあーと思ってお互いに憎みあい、苦しみあっている。どうして私は、こんなに憎むのだろう。どうして私は、こんなに憎まれるのだろう。お互いに、うらみ、憎んでいる人と暮らさなくてはいけない。こういう現状から、ほんとうは離れたいのです。けれど、こういうことをよく考えてみると、現在この世で生きている我々は、そういった苦しみをはっきり体験していると思います。
これは大変な仏教の心理分析だと思うのです。仏教というものは、我々の生活における苦しみ、悲しみ、悩み、そういったものを人間の生存に必然的にあるものとして、認識し、そのところから出発しているところに、大きな意味があるように思います。私は、もういっぺん、このあたりを振り返ってみたいと思うのです。私はここでは、けっして西洋の心理学における苦しみとか、悲しみとか、そういう定理をいいません。なぜかというと、いろいろと私は経験した結果、この仏教の分類くらいはっきりしたものはないと思うからです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
フロイトによる無意識の発見が十九世紀末と言われますが、仏教においては既に4世紀に無意識について、しかも遥かに詳細に論じられています。
また、自我の思い通りにならないことに不満を感じることを西洋では当然のことと考えますが、仏教においては、思い通りにならないことに「苦」を感じる「自我」そのものをむしろ問題視していきます。
こういった事実について余り知られていないのは、非常に残念なことです。
かつて近藤先生の提案により、世親(せしん)による『阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)』の「隨眠品(ずいめんほん)」を読み進め、いわゆる“百八つの煩悩”を一緒に整理して行ったことを懐かしく思い出します。
例えば、我々の身に「愛別離苦」や「怨憎会苦」が起きたとき、悩み苦しんで、なんとか思い通りにしようかと悪戦苦闘して行くのか、思い通りにならないと気が済まない自分を超えて行こうとするのか、では決定的な差があることになります。
少なくとも欧米由来のほとんどのサイコセラピーが前者を前提に“治療”を考えているのに対し、仏教は後者に基づいて“救い”を考えていることを知っておいていただきたいと思います。