「私の田舎は、へんぴなところで、瀬戸内海の真ん中の孤島みたいなところで、水清く、まったくの白砂青松(はくさせいしょう)で、のんびりした漁村です。そんなところで暮らしていたのが、急に東京にパッと出されて、しかも小学校へ行ったら、まず方言でみんなからあざけられたり、からかわれたりしたわけです。あんな、いやな気持ちはないですね。子どもを転学させる場合は、よっぽど気をつけてくださいよ。
私は、故郷のことが非常になつかしくなったものですから、作文に書いた。そうしたら、先生がそれをすごく認めてくれて、もう少ししたらさみしくなくなるからと、はげましてくれた。それで、私は助かったんですよ。いろいろな理屈をいいますけれど、人間が弱ったり、くたびれたり、心細くなったり、悲しくなったり、苦しんでいたりするときは、どうか、慰めてあげてくださいよ。やっぱり、それが人間同士ということではないかと思います。いろんなことで苦労して、悲しんで、苦しんでいるときはには、親鸞さんがおやりになったようにひとつお酒でもあたためて、一緒に飲んであげることもいいと思う。念仏を称えよとも、何をしろともいわないんだなー。ただ、お酒を一緒に飲んでと、そういうことなのです。私はそういうものだと思う。むずかしいことはいわなくとも、人間の気持ちは、お互いにやっぱり感じる力を持っているのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
9月4日(木)付けの拙文を読んでいただければ、この近藤先生のコメントの位置付けが、よりはっきりされるでしょう。
子どもたちに寄り添うとき、
娑婆で精一杯生きているフツーの人たち(即ち、俗人、凡夫)に寄り添うときは、
こういきたいものです。
そんなときは「念仏しなさい」なんて言わなくて良い。
分析も説明も要らない。
しかも、
「さあ、飲みたまえ。」
ではなく
「さあ、一緒に飲もう。」
なのである。