「いちばん安楽な状態というものは、人間の過去の歴史を見ますと、赤ちゃんのときにお母さんの胸のなかに抱かれている状態、これがいちばん安心した状態なのです。だから、人間はそういう状態を非常に好むのです。たとえば女性は恋人の強い腕のなかで抱きしめられているときは安心感を持つ。…男性の場合は、女性の胸に抱かれていると、じつにいい気持ちになってしまう。やはり、これも赤ん坊ということに関係があるのではないかと思うのです。母の胸に抱かれるように、自分の奥さんの胸に抱かれるということがあるわけです。女の人のほうでは感じていないかもしれないけれど、男のほうではけっこう感じているのです。もっとも男の人は、自分は抱かれて安心したなどと男のメンツにかけていいませんがね。
今日、上役にどなられて帰ってきた。それを奥さんがパッと理解して、「そんなこと心配ないわよ」なんていわれると、それだけで夫は救われた気持ちになるんですよ。女性のほうもそんなものです。奥さんが人に何かいわれたとき、「あなた、お隣りの奥さん、こんなふうなのよ」「ああそうか、そうか」なんて聞いて、「それはおまえのほうがいい。お隣りの奥さんが間違っている」なんて理屈なんてどうでもいいから、そういってくれると、たいへんうれしいのです。私たちはみんなとても子どもなんです。自分が間違っていても、そんなふうにいってくれるとうれしい。いい年になっても、人はやはり認められたり、ほめられたりするとうれしいのです。要するに、自分が小さいときに、親から認められたりほめられたりするとうれしかったときと同じことなのです。…
そこで泣いており、そこで怒っており、そこで悩んでいる人が、じつは子どもなんだと感じることは、大事なことであると思います。自分自身も、やっぱり悩み、苦しむ子どもなんだということをわかっていると、そこで共感の世界が開けてくると思うのです。お互いに子どもと認め合うことによって、本当の意味の触れ合いが成立するということです。子どもに理屈は役に立たないのです。きみしっかりしなさい、なんてダメなんですね。もっと平静に思考しなさい。無心になりなさいといったってダメなんです。そんなこといったって役に立たない。それより、お互い子どもであるということについての共感を持ったほうが、わかりやすく、そして理解し感じやすいのではないか。これはひとつ参考にして考えてみてください。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

いい年をして実は子どもなんだ、ということは、精神的に幼児のままだということです。
他者評価の奴隷であり、
承認欲求の塊であり、
いまだに母親の胸を求めている幼児のままなのです。
そして、あなたもわたしもそうなんだ、ということをまずは認めること。
これが「共感」の「第一歩」。
そしてその上で、幼児にとって、ほめられること、認められることは、ひとつの救いになる。
これが「救い」の「第一歩」。

そう思っていると、やがて「あれ? わたしたちって幼児じゃないよね。」という思いが出て来ます。
大人になっても幼児的であるということは、残念ながら、神経症的であるということです。
幼児期の問題が解決されないまま、大人の今も生きているということ。
そこを踏まえた上で、上記の「第一歩」に留まらないから「第二歩」が展開して行きます。
それはまた次回に。

 

 

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