昨日の続き。
近藤先生亡き後の私は今、誰に/何に支えてもらっているのか?
近藤先生御存命の頃は、近藤先生に支えていただいている、と思っていた。
しかしやがて、そうではないことに気がついた。
近藤先生にではなく、近藤先生を通して働いているものに支えられていたのである。
それに気づくと同時に、その働きは私にも直に働いていることに気がついた、近藤先生を介さなくても。
この発見は大きかった。
それ故に、近藤先生が逝去されたとき、
「ああ、間に合った。」
と思った。
そうでなければ、きっと喪失体験に沈んで、路頭に迷っていたであろう。
私は支えられていたのである、この世界に、最初からずっと。
そうして改めて「支え手」の意味を知った。
ちょうと近藤先生が私にそうして下さったように、
まず私を通して働く力によって、その人がその人であることを、その人がその人に成長して行くことを支えるのである。
そしてやがて気づいていただく、感じていただく。
あなたをあなたさせる力は、私を通さなくても、あなたの中に働いていることを。
それが「支え手」という役割の本質なのである。