大乗仏教においては、「一人残らず救う」ということが何よりも要(かなめ)となっている。
自分だけが救われる小乗(小さな乗り物)仏教に対して、わざわざみんなが救われる大乗(大きな乗り物、優れた乗り物)仏教と称しているのであるから、そこは譲れない。
中には、「一人残らず救う」と言いながら、「でも、流石にこんなヤツは救ってやんない。」と条件を付けて除外する教えもあるが、それは大乗仏教と呼ばず、権仏教(ごんぶっきょう)と称して区別している。

そんな大乗仏教の救いの代表が、まずは阿弥陀如来である。
その誓願によって、我々娑婆の凡夫を一人残らず救って下さるという、誠に有り難い話である。
ご苦労はんだす、阿弥陀はん。

それで話がすべて終わってしまうところであるが、中に気づいた人があった。
今、娑婆にいる人間はすべて救われるにしても、輪廻転生(りんねてんしょう)を称える仏教においては、今、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を輪廻している者については、人間道(=娑婆、人間界)以外の者が救われないではないか。
あとの五道に行っちゃってるものはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが地蔵菩薩である。
みなさんもどこかの辻で見かけたことがおありであろう、あの六地蔵を。
そう。
六地蔵とは、今、六道に輪廻している者たちを、一地蔵一道ずつ、漏れなく救いに行こうとされている御姿なのである。
だから、わざわざ手に錫杖(しゃくじょう)(=杖)を持って、六道どこへでも、こちらから救いに行きまっせ!ということになっている。
本当に有り難い話である。
ご苦労はんだす、地蔵はん。

で、それで終わりかと思ったら、また気づいた人がある。
それで今いるものは六道全部で救われたとしても、今から生まれて来るものたちはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。
細かいなぁ。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが弥勒(みろく)菩薩である。
五十六億七千万年後に、兜率天(とそつてん)から降りて来て、それまでに救いそこなったもの全てを救うという。
未来のことまで準備済みである。
誠に行き届いて有り難い話である。
ご苦労はんだす、弥勒はん。

上記はあくまで私の解釈であるが、それでも話にはキリがなくて、じゃあ、五十六億七千万年後以降はどうすんねん、ということになって来るし、他にもツッコミどころが限りなくありそうである。
けれども、そろそろ勘の良い読者の方はお気づきであろう。
結局のところ、阿弥陀はんも、地蔵はんも、弥勒はんも、みんな方便なのである。
救いの力が、永遠の過去から永遠の未来まで、すべての世界を貫いて働いていることを示すための仮の名前なのでありました。

そういう眼であの曼荼羅をご覧になると、あらゆる力を結集して一人残らず救おうとされているのを感じて、有り難さがさらにさらに増して来るかもしれまへんなぁ。

 

 

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