「はっきり申しますと、医者というものの、あるいは、医師という、医学というもの、癒すということを中心とする仕事の中にはね、基本的な、これはもう、公理というか、疑うことのできない、それなくしては医療ということができない、ひとつの哲学と言いますか、考え方が、根本的な考え方があると思うんです。
それはどういうことかと言いますと、医者は神さまではありませんから、何か新しく生命を付与したり、新しく生命を作ったりすることはできないわけです。そうでなくて、結局、医者ができるのは、たかだかと言っても良いと思うんですけども、その人の持っている健康に生きる力、そういったものをヘルプして行く、助ける、これ以外にないと思うんです。…
つまり、そのね、人間にインヒアラント(inherent)に、実際、固有に備わっているところの、人間の生きる力、そういったものというものが根本的前提になっていると思うんです。で、その生きる力というものは、人間を通じて、人間自身がその生涯を通じながら、常に進展し、発展し、成長して行くもんだという、そういう根本的なテーゼ(These)というものが私になくしてはですね、結局、何事もできないわけです。
よく西洋の諺で、馬を水のそばに連れて行くことはできるけれども、水を飲ますことはできない、飲むのは馬である、とこう言いますが、結局、飢えだとか渇きだとか、その中にあって初めて、それは人間の、生物の健康な働きとして、そういうものがあって初めて水を飲み、食事を食べるもんだと思うんですね。その意味で、やはり、基本的に人間の中に、それなくしては考えられない、生きる、生きんとする力、そうしたものが基本的に動いているってことは、我々、医学をやる者について基本的に考えて行かなきゃいけない。それがもう無意識でありますけれども、我々の中にあるんだ、とこういう具合に思うんですね。…
そういうものが、私はもう少し、非常にこう、単直に行きますけども、私は、今の、例えば、教育なんかでですね、言わば、そういうふうな生命力、人間の成長して行く力というものを益々強め、そしてその方向を本当に自分自身がそれぞれ見定めて、例えば、杉が杉になるように、松が松になるように、その人それ自身が独自のものになって行く、その人間が本当に生まれて来たことの、ある意味で、意味をそこで完遂して行くことが、それが一生だと思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
我々がまず、本当の自分、真の自己というものを一人ひとりに授かっているということ。
そしてまた、真の自己を授かっただけではなく、それを実現して行く力というものもまた与えられているということ。
これが基本的人間観の大前提となります。
そして、それ故に、それをヘルプして行くのが、医師や教育者や親の重要な役割ということになります。
宜しいですか。
答えは、こちら側(癒す側、教える側、育てる側)にではなく、向こう側、人間存在一人ひとりの中にある、ということです。
従って、この人はそもそもサクラなのかスミレなのか、それを観通す、感じ取ることができなければ、治療も教育も養育も始まらない、それどころかミスリードしてしまう危険性もある、ということになります。
自分自身においても、他人においても、真の自己を観通す、感じ取ることは、必ずしも簡単なことではありませんが、少なくとも、それをなんとかして観い出そう、感じ取ろうという姿勢がとてもとても大切ということになりますね。