シングルマザーとして懸命に働きながら、3人の子どもを育てている女性がいた。
6歳の長女が発熱したので、仕事を休んでを病院に連れて行ったら、インフルエンザと診断された。
これから他の子にも自分にも感染するかもしれないことを思うと、いろいろ頭をかすめる心配もあったが、まずは目の前の長女のケアに専念しなきゃ、と思った。
そう思った矢先、病院からの帰りの車の中で、長女が下痢を漏らしてしまった。
まさにOMG(Oh, My God!)である。
申し訳なさそうな長女の顔を見ていると、わざとしたわけでもなく、出てしまったものは仕方がないと、淡々と片付けをした。
そして帰宅して長女を布団に寝かし付けた後、今度は布団の上に嘔吐してしまった。
またまたOMGである。
さらに申し訳なさそうな顔をしている長女の顔を見ていると、これもまたわざとしたわけでもなく、出てしまったものは仕方がないと、淡々と片付けた。
私が伺った、それだけのエピソードであるが、やっぱり“それだけの”エピソードではない。
余裕のない暮らしをしながらも、全く長女を怒らなかったこのお母さんの姿はとても有り難いと思った。
しかし、この姿勢をすべての親御さんに要求するつもりはない。
実際には、つい子どもを怒ってしまう場合も少なくないと思う。
同じ状況に置かれたら私だって怒ってしまうかもしれない。
それでも怒ってしまった後に、ああ、悪いことをした、怒らなきゃ良かった、もう少し優しい親になりたい、と思えたとしたら、凡夫の親としてはそれで十分なんじゃないかと思う。
つい怒ってしまう姿は、確かに余り良いもんじゃないけれど、そんな自分を超えて成長したい、もっと我が子を愛したい、という思いがその人を貫いて働くところに希望があるのである。
そうしたらいつか先のお母さんのように“自然に”怒らないでいられるようになるかもしれない。
そう。
実は先のお母さんが怒らなかったのも、そのお母さんの力ではないのである。
我々のこころは、愚かな凡夫性がその表面を覆っているけれど、その奥には常に尊い仏性が働いている、という二重性こそが、人間の偽らざる姿だと私は思っている。