ある3人が被災地支援に出かけて行った。
Aさんは、内なる見張り番から「支援に行くべきである」「支援に行かなければならない」と「強制」されて出かけて行った。
内なる見張り番とは、その人が生育史の中で環境(多くは親)から埋め込まれた「~べきだ」「~ねばならない」の主(あるじ)を指す。
被災者がいると聞いて何もしないでいると、内なる見張り番から責められ、罪悪感と自責の念に苛まれて、落ち着いていられないのである。
こういう人の第一の特徴は、見張り番が自分を締め上げるのと同時に、返す刀で、他人も裁くことである。
よって、自分はやるべきことをちゃんとやっているという「自負」があり、「どうしてみんな支援に行かないのか」と支援に行かない人たちを上から目線で「裁く」。
支援に行くことは、見張り番(超自我)からの「強制」である。
Bさんは、自分の自発的自由意志によって、支援に出かけて行った。
被災者が気の毒だ、という情緒的な理由が大半を占める。
語源的にもボランティア(=自発的自由意思によって動く)に最も合致する行動である。
しかし自発的自由意志とは「(自)我」を根源とする。
よって、支援したことが余り感謝されなかったり、ましてや不満をぶつけられたりすると、たちまち気持ちが萎える。時には怒りさえ覚える。
喜ばれたい、評価されたい、が付いて回るところが我の所業らしいことろである。
誤解のないように付け加えれば、ボランティアは一般市民の善良なる思いから出るものであり、現実に大きな貢献をしていることは事実である。
そこを踏まえた上で、その行動の出どころを観抜くのが私の仕事である。
Cさんは「思わず」出かけて行った。
Cさんを通して働く力に催されて、支援に出かけて行ったのである。
よって、「~べきだ」「~ねばならない」の重さはない。
喜ばれたい、評価されたい、の粘っこさもない。
たとえ全然評価されなくても、心ない批判を浴びても、芯は揺るがない。
それは一方的な行動なのである。
そこに働いているのはミッションなのだ。
実は、先に挙げたボランティアの方々の中にも、ミッションで行動している人たちが含まれる。
「超自我」による「強制(compulsion(コンパルジョン))」でもなく
「(自)我」による「自発的自由意志(volunteer(ボランティア))」でもなく
言わば「無我」ゆえに働く「天命(mission(ミッション)」があるということを知っておいていただきたいと思う。