心学の書に
「草木(そうもく)は天にたがはざるも因(より)て、教(おしへ)は不入(いらず)。人は喜怒哀楽の情に因(より)て、天命にそむく。故に教をなして人の道に入れしむ。」(石田梅岩『都鄙問答』)
(草木は天に背(そむ)かないので、教えはいらない。人間は喜怒哀楽の情によって天に背くので、教えによって人の道に入れさせなければならない)
「赤子(せきし)の心を失はざる者は聖人なり。」(同上)
(赤ん坊の心を失わない者は聖人である)
とあった。
全くおっしゃる通りである。
ああ、それなのに、それなのに、我々はその後の生育環境の影響を受けて、赤心(せきしん:赤ん坊の心)の上に塵埃を積み重ねて、ろくでもない大人になって行く。
聖書に言う。
「もし汝(なんじ)ら飜(ひるが)へりて幼兒(おさなご)の如くならずば、天國に入(い)るを得(え)じ。」(『新約聖書』マタイ傳福音書)
(あなたたちはもし心を入れ替えて幼い子どものようにならなければ、決して天国に入ることはできない)
「天國はかくのごとき者(=幼兒(おさなご))の國なり。」(同上)
(天国はこのような者たち(=幼い子どもたち)の国である)
全く同じではないか。
また、禅でも
「赤心片片(せきしんへんぺん)」(『碧巌録』)
(赤ん坊のような純粋無垢な心が満ち満ちていること)
をよしとする。
かの良寛さんが小さな子どもたちと遊ぶのを好んだのもそのためであった。
しかし、失望する必要はない。
赤心はあなたの中にずっとある。
そして、いつでも出て来る、あなたが本当に安心さえすれば。