寂しさについて連想していたら、近藤先生のことを思い出した。
独語的に語ってみよう。
寂しさには、情緒的な寂しさと霊的な寂しさとがある。
情緒的な寂しさは、一般的な寂しさであり、
これは誰かが傍にいてくれることで
あるいは、誰かとつながることで
癒されるものである。
特に情緒的に愛されたりすると、大いに癒される。
これは、良い・悪いではなく、そういうものである。
愛着障害などと言われるものもここに関連したものであり、
東日本大震災のときに言われた絆というのもここに含まれる。
人間は、情緒的な寂しさによって、情緒的に苦しみ、情緒的に癒される。
ズバリ言ってしまえば、苦しむのも、癒されるのも我(が)なのである。
そういう意味で、実に人間らしい寂しさと言えるかもしれない。
そう言えば、往時、近藤先生が
「人間、寂しくなければ、結婚なんかしないよな。」
と言って、私にウインクされたことがあった。
大した御方である。
それに比べ、霊的な寂しさを感じている人は、そんなにいないかもしれない。
しかし、これを感じたが最後(気づいてしまったが最後)、情緒的な寂しさとは雲泥の差の、強烈な寂しさに襲われることになる。
これは、どんなに大人数に囲まれていても、ベッタベッタにくっついていても、全く癒されない。
情緒的な浅さは、霊的な深さに全く届かない。
いわば、本来、ぶっつづきの生命(いのち)であったものが切り離され、放り出されたことから起きて来る寂しさである。
感じた者(気づいた者)は、徹底的な絶対孤独に苛(さいな)まれることになる。
そして求める、本来のぶっつづきの生命(いのち)に戻ることを。
求めているのは、私ではない、我ではない。
私の生命(いのち)が、私の霊性が、天地ぶっつづきの生命(いのち)に戻ることを求めて止まないのである。
そしてもしそれが達成されてしまえば、最早、情緒的な寂しさなどは、大海の水面(みなも)のさざ波のようなものとなる。
(但し、気づいてしまえば、天地ぶっつづきの生命(せいめい)は無始よりこの方、ずっとぶっつづきだったんだけどね)
ちなみに、近藤先生は、情緒的には寂しがり屋であった。
そして霊的には、天地ぶっつづきの生命(いのち)に生き、全く寂しくなかった。
その上で、情緒的な寂しさも楽しんでおられた。
一人で平気で生き、一人で平気で死ねるのに、である。
やっぱり大した御方であった。