昨日の話をもう少し発展させたい。
昨日の説明では、
Aさんは、「超自我」(見張り番)による「強制(compulsion(コンパルジョン))」で動き、
Bさんは、「(自)我」による「自発的自由意志(volunteer(ボランティア))」で動き、
Cさんは、「無我」ゆえに働く「天命(mission(ミッション)」で動いた、
というように思えるが、実際はそう簡単ではない。
「超自我」(見張り番)による「強制(コンパルジョン)」の要素をα(アルファ)、
「(自)我」による「自発的自由意志(ボランティア)」の要素をβ(ベータ)、
「無我」ゆえに働く「天命(ミッション)」の要素をγ(ガンマ)
とするならば、
実際には(あくまで「例えば」の話であるが)、
Aさんは、αが7割、βが2割、γが1割で動き、
Bさんは、αが1割、βが7割、γが2割で動き、
Cさんは、αが1割、βが2割、γが7割で動いた、
という方が、より正確であると言えるのだ。
即ち、何が言いたいのかと言うと、
「超自我」(見張り番)による「強制(コンパルジョン)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「自発的自由意志(ボランティア)」と「天命(ミッション)」が混じっており、
「(自)我」による「自発的自由意志(ボランティア)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「強制(コンパルジョン)」と「天命(ミッション)」が混じっており、
「無我」ゆえに働く「天命(ミッション)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「強制(コンパルジョン)」と「自発的自由意思(ボランティア)」が混じっている、
ということである。
最初からこう言うと、話がややこしくなるため、まず最初に昨日のように単純化した話をしたのである。
しかし、上述の方が正確であることは間違いない。
そして、この中で特に重要なのが、すべての行動に「天命(ミッション)」が入っている可能性があるということである。
どんな行動にも、本人の「超自我」(見張り番)や「(自)我」を超えた「天命(ミッション)」が働いているかもしれないという事実には、希望と光がある。
そして同様に重要なのが、たとえ最初に「思わず」「天命(ミッション)」で行動した(させられた)人であっても、
ふと「この行動はすべきであったのか」と「考え込んで」しまったり(「超自我」(見張り番)の「侵入)、
つい支援活動を褒められて嬉しくなったり、批判されてガッカリしたりする(「(自)我」の侵入)
ことがあるかもしれないのである。
こう言うと、「天命(ミッション)」が100%でないことは残念なような気もするが、
そんな「超自我」(見張り番)や「(自)我」が混じっていることが、とても「人間的」あるいは「凡夫的」であるという気もして来る。
思えば、近藤先生は、天命(ミッション)に生かされる人でありながら、非常に情の厚い方であった。
いかに悟っていても、この人間臭がないと、地上に肉を持って生きている人間として、どこか豊かでない、彩りがない、瑞々しくない、と私は感じてしまう。
そして、いつも
「煩悩即菩提」
や
「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」
という言葉が浮かんで来るのであった。