禅においては、経論や語録などの書物を読むばかりで、坐禅を徹底しない、存在をかけて公案に挑まない姿勢を「黒豆食い」と言って批判した。
墨蹟黒々とした漢字を黒豆に譬えたものである。
黒豆のような漢字ばっかり追いかけていて、真実の体験がない、ということだ。
また、心学においても、儒教や仏教、神道などの書物を読むばかりで、学んだことが体得されていない、生き方に現れていない人間のことを「文字芸者」と呼んで批判した。
文字を操るだけの芸者という意味であろう。
いわゆる「論語読みの論語知らず」などもその中に含まれる。
いずれにしても、知識や理解よりも、体験や体得でなければ意味がない、という立場である。
そういうと難しいことのように思われるかもしれないが、実際には意外と簡単である。
その人間に逢ってみればわかる。
日々の言動を見ていればわかる、のである。
体験がある者にだけ感じられるものがある。
存在から匂い立つものがある。
日常のささやかな言動の中に、その人間の本音の本音が現れる。
私はそうやって近藤章久を見つけ、
親しく接するようになっても、さらに信頼が深まった。
そして、そういう人を観る眼というのは、やっぱり自己責任なのだと思う。
今までも申し上げて来たように、人を観る眼がないのは致命的である。
我々の生涯をかけて、「黒豆食い」でないホンモノを見つけ、
我々の生涯をかけて、我々自身もまた「黒豆食い」でないホンモノになって行きましょう。