イヤなことがあったときどうするか。
自らを振り返ってみたり、周囲に訊いてみれば、よくわかることである。
家族や友だちに話す。
酒を飲む。
美味しいものを食べる。
買い物をする。
カラオケに行く。
などなど。
これらの方法を否定するつもりはない。
これらの、いわゆる気分の“紛らわし”は確かに有効であろう。
それで気持ちがスッキリと晴れるときもある。
しかし、それはあくまで「イヤなこと」の程度が浅いときに限られる。
ある程度以上深い「イヤなこと」があったときには、こんなことで紛らわすことができない。
紛らわしても紛らわしても「イヤなこと」が何度も浮上し、我々は繰り返し繰り返し懊悩することになる。
これではたまらない。

しかし、心配することなかれ、それでも賢明なる先人たちは、そんなときの救いの道も用意しておいてくれている。
それが「無我」への道ということである。
即ち、気にしている私=「我」がなくなれば、懊悩することがなくなる。
イヤな思いをする主体、懊悩する主体がなくなってしまうのだから。

かの心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療においても一時、“紛らわし”のちょろまかし療法が流行ったことがあったが、それではやはり根本的解決にはならなかった。
そうではなくて、トラウマ(心的外傷)を感じている私、傷つく私=「我」がなくなれば、すべての懊悩から解放されることになる。

傷つく私=「我」をなくすといっても、もちろん、自殺してしまっては元も子もない。
実際にも、辛くて辛くて自殺を図る人もいるが、それは真の解決にはならない。
生きながらにして、気にしている私=「我」がなくなる道はないか、というのが事の核心なのである。

それが呼吸による「無我」の道なのだ。
そんなことで、と軽んずることなかれ。
必死にやってみればわかる。
まず呼気において、息を吐いて吐いて吐いて、吐き尽くす。
これはやってみればわかるが、いくらでも出る、驚くほど出る。
我々の通常の呼吸がいかに浅いかがわかる。
そして、吐いて吐いて吐いて、吐き尽くした最後に、自分=「我」まで吐いてしまうのである。
そのとき、ほんの一瞬かもしれないが「無我」の瞬間がある。
これは体験してみるしかないが、確かにその一瞬は、あらゆる苦しみから解放された瞬間がある。
この“体験”が重要。
体験しなければ意味がない。
体験しなければわからない。
もちろん、ちょっとやってみてすぐに得られるような体験ではない。
繰り返しやってやってやって、ようやく授かる体験である。
しかし、この体験があるとないとでは大違いなのである。
そこに間違いなく救いがある。

そしてすべてを、「我」を含めて、吐き切った後に、その真空に吸気が入って来る。
それは過去の繋縛(けばく)から離れ、自分を新たに再生させ、蘇らせる吸気なのだ。
ひと息ごとの死と再生。

だから、たかが呼吸と侮ることなかれ。
深まれば深めるほど、そこに生かされていることの本質があるのである。

 

 

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