1989(平成元年)、国連総会で「子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)」が採択され、翌1990(平成2)年に発効された。日本がこの条約を批准したのは1994(平成6)年である。
その主な内容としては、以下の四つ。
(1)生きる権利 …すべての子どもの命が守られる権利。
(2)育つ権利  …自分らしく健やかに育つことができる権利。
(3)守られる権利…あらゆる暴力や搾取、有害な労働などから守られる権利。
(4)参加する権利…自分の意見を言ったり活動したりできる権利。

その内容に関して異論はないが、どうも「権利」という考え方自体が私にはしっくり来ない。
今さらここで「そもそも『権利』とは…」「そもそも『人権』とは…」という観念的議論を始めるつもりもない。
関心のある方は、その筋の文献に当たってみることをお勧めする。
そうではなくて、本当に子どもたちを守り、育てようとした場合、「権利」という概念を啓発し、教育し、流布し、理解してもらうことで、現実にどれだけ人間の行動変容が起こるのか、ということが私の最大の関心事なのである。
確かに、「無知」や「誤解」によって起こった問題ならば、正しい「知識」と「理解」によってその問題は解決されるかもしれない。
その意味では、「子どもの権利条約」が採択され、批准されることには大きな意味がある。
「子どもの権利」意識は高まるかもしれない。

しかし、私はそれよりも、人間としての当たり前の“感覚”の方を遥かに重視している。
目の前の子どもたちを見て、この生命(いのち)を守りたいと感じ、健やかに育って行ってほしいと願い、あらゆる被害から守りたいと思い、のびのびと生きられるようになってほしいと祈ることは、「子どもの権利」意識の知的理解から来るのであろうか。
私はそうは思わない。

悲しいことに、「子どもの権利」については知的に熟知していながら、実際に、我が子を、生徒を、子どもたちを「権利侵害」をしてしまっている人たちがいることを私は知っている。
「権利」意識は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは些か弱いと私は思う。
言い方を変えれば、「権利」の「知識」や「理解」は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは十分でないと私は思う。

反対に、「子どもの権利」という概念を知らなくても、人間としての当たり前の“感覚”から、子どもたちを愛している人たちがいる。
なんらかの理由でつい子どもたちに辛く当たってしまった場合にも、人間としての当たり前の“感覚”から、すぐに後悔し、懺悔する人たちがいる。
私は、そんな人間としての当たり前の“感覚”の方が、気をつけなくても、考えなくても出て来るので、余程信頼できると思っている。

但し、この“感覚”は、教わらなくても人間に最初から与えられているものなのだが、その後の生育史の影響によって、その“感覚”が塵埃に覆われて、鈍くなっている人たちが少なからず存在する。
よって、その塵埃を掃う作業が必要になって来る。
そうでないと、“感覚”というものは、“敏感”であれば絶対的な確かさを伴うが、“鈍感”になると曖昧模糊として非常に頼りないものになり下がってしまうのである。
但し、その作業は、「知識」や「理解」では無理である。
それは「内省」と「体験」によってしか行われない。
詳細は長くなるので割愛するが、当研究所で行っている「人間的成長のための精神療法」も、人間としての当たり前の“感覚”を磨くためのひとつの道である、ということは、手前味噌でなく、付け加えておきたいと思う。

ちなみに、「子どもの権利条約」と同様のことが、「障害者権利条約(障害者の権利に関する条約)」(2006(平成18)年国連総会で採択。2014(平成26)年に日本も批准)についても言える。
障害があろうとなかろうと、人間同士が互いにその存在に畏敬の念を抱き、愛し合うことは、人間としての当たり前の“感覚”によるものであると私は思っている。

 

 

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