つまり、日本人は、非常に人付き合いが良いんだけども、本当言うと、人付き合いが嫌いだな。できるだけ一人でいたいところがある、ね。だから、アメリカ人に言わせると、留学生が随分、私のところへいましたけど、どうして日本人ってのはパーティに出て来ないんだろう? 彼らはすごくね、寂しがり屋だから、人懐っこくて、みんな寄って来て、パーティをじゃんじゃんやって、何も知らない者にもこうやるわけですよ。ところが、日本人ってのはそうじゃないから、一人でいてね、よくあのアパートの寂しい、机とね、ベットしかないところにじっと一人でいるな、と感心してるんですよ。感心するわけなんでね、しょっちゅう人にばっかり気を遣ってるんだからね、せめて気を遣わないときがほしい、とこういうわけよ、ね。まあ、一杯飲み屋かなんかに行って、こうやって飲んでたら、とても良い気分になる、これね。一人でこう飲んだらなんとも言えない良い気持ちだ、とこういうわけですよ。
だから、withdrawal(ウィズドローワル)っていうか、人から逃避するという傾向に陥る、ね。そのくせ、普通には、社会的に言うと、なんか、人に向かってですね、ご機嫌を取る。相手に向かって相手のご機嫌を取って、相手の好意を得て、自分にね、そしてこの好意を利用してですね、自分の何か、自分の安全とか、自分の昇進とか、良いことを図ろうという、こういうふうな魂胆(こんたん)があるんですね。
相手の方もまたその魂胆を知って、あいつは俺に近づいて来たって言うけど、これはさっきの話で、そうやってやられると、人から良く思われると良い気持ちなもんだから、ああ、あいつは俺の手下だなっていうわけで、こう、非常に良い気持ちになっちゃう、ね。相互依存と私はこれを言うわけ。つまり、支配する者は支配される者がいなきゃ成り立たないんで、みんないなくなっちゃったら、ヒットラーでもね、支配する人間がいなくなったら、一人ぼっちになっちゃう。フワーッとしてることになっちゃう。ところがまた、支配される人間は、支配する人間がいると安心できる。あいつのせいだっていうことにできるからね。なんでもそう。
だから、日本では、面白いことは、これは徳川時代からそうですけどね、なんか議論やるでしょ。最後にね、ごちゃごちゃ、今の閣議でもそうですな。これは委員長に一任とか、任せちゃう。任せちゃうと、自分は責任を逃れちゃう、ね。あれがやったんだから、オレはまあ、任せたんだからしょうがない。あいつのせいだ、とこういうわけ。依存でしょ、これ。自分自身の意見とか、自分自身の責任において解決してるわけじゃない。だから、それは両方依存してるわけね、これね。そういう意味で、私は、日本の社会の特徴は、相互依存的な関係があって、お互いに利用し合ってる関係。まあ、それはそう言っても良い、ね。…
ところが、ご厚意に甘えまして、てなことになっちゃってね。甘え込んじゃって、宜しくお願いしますって、宜しくってのはどの程度だかわからない。そうすると、そのときの状況によって決定されるわけね。そうすると、私は折角あの人に頼んだのに、あれ程頼んだのに、あの人は私の期待を裏切って、やってくれなかった。そういう具合にブーブー言うことになっちゃう。また、片っ方は片っ方でどうかっていうと、自分でね、宜しくって言うから宜しくって僕はやってやったのに、なんであいつは御礼も言わない、なんてことになっちゃう。そういうふうな、妙ちきりんな、腹の探り合いってことになると、そこで益々ね、お互いの顔色をじっとこう、見ることが必要になって来る。あいつはどういうことを考えてるだろうかってことがね。これがね、私は、エネルギーの大変なロスになってると思うんですよ。このために頭がくしゃくしゃしちゃう。
全く対人関係でのね、そういう意味で、問題が多いんですよ。これもへちまの屋根ですよ。屋根みたいなもの、これね。私たちに何かね、そういうものがね、知らないうちに、平生(へいぜい)やってることだけどもね、のびのびとさせない。さっき言った、自然に人間として人を愛し、ね、人に本当に好意を持ち合ったり、あるいはそういうふうなことで、心と心が触れ合ったりすることを妨げてる、ひとつの材料になっていはしないかと、まあ、こんなふうに思いますね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちらを参照。
そうしますと、「服従と引き換えの責任逃れ」と「責任の引き受けと引き換えの君臨支配」という相互依存関係の成立と維持にも、腹の探り合い、気の遣い合いという、非常に面倒臭い手間がかかるということになります。
とにかく神経症的な人間関係というのは結局、エネルギーを使って疲弊することになるわけです。
先日テレビで、現代人の会社での昼休みや休憩時間の過ごし方調査というのをやっていました。
その中で一番多かったのが何かというと、個食や孤食、一人で過ごす、という選択でした。
ここでも、普段人に気を遣って生きているんだから、せめて休み時間くらい一人にさせてくれよ、という思いを感じます。
不登校、引きこもり、繰り返す離職といった現代の状況を含めて、この48年前の講演の頃と変わらぬ問題の根幹がそこにあります。
目指すべきは、そんな消耗と疲弊の関係ではなく、私が私でいて、あなたがあなたでいて、その二人が互いに愛し合い、互いの成長を促し合う関係なのです。
そして最終的には、一人でいても誰かといても、本来の自分でいることを目指しましょう。