「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と断定的なことを自信たっぷりに言う人がいるが、実際のところは、間違っていることも少なくない。
「それは本当にアンケートを取って調べたのか?」
「確かなエビデンス(証拠)があるのか?」
と詰めて行くと、甚だ怪しいこととなり、その人だけか、せいぜいその周囲の少数の人たちだけの思い込みだったりする。
精一杯広く見ても、せいぜい、その地域、その時代だけの思い込みであることが多い。
それではとても「フツー」「みんな」などと言うことはできない。
それなのに、
「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と言うのは、十分に「独善的」である。
さらに
「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
という表現の裏には、
「だから、おまえもそうしろ!」
というメッセージも隠されている。
そうなると「支配的」でさえある。
皆さん、騙されないように。
健全な人間には、
「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と思いそうになっても、
「ひょっとしたら、これは自分だけの思い込みかもしれない。」
という謙虚な内省が生じるはずであり、
もし万が一、あなたが誰かに、あなたの意見を言いたいと思ったとしても、
「フツー」「みんな」というような、言わば、“ズルい”言い方を使わず、
「(他の人は違うかもしれないが)私はこう思う。」
とか
「だから(もし宜しければ)、あなたもそうした方が良いんじゃないかと思う。」
というような表現になるだろう。
そのときには、あなたにはあなたの人生を歩んで行ってほしい、という愛と願いがこもるはずである。
そうなると、あなたの存在は、世界に一人であり、人類史上初めての存在であるわけだから、
「フツー」も「みんな」も関係なく、あなたの選択が、世界に一人の、人類史上初めてのものであっても構わない、ということになる。
だから、やっぱり戻るところはここになる。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かった。
自分がどう生きて死ぬのかを見い出すのが、出生の本懐なのである。