昨日の「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」(囲いの壁や瓦や石ころ)から発展したお話。
近藤先生は講演の中で、極めて重要なことを、話の合間にフッと言われることがあった。
こちらもつい聞き逃しそうになるのだが、
「いやいやいや、ちょっと待って下さいよ、先生。今、なんておっしゃいました?」
と聴衆席で一人ツッコミを入れていたのを思い出す。
そしてそれが次回の先生との面談での重要なテーマになった。
例えば、ある講演で、師はフッとこう言われた。
「まあ、僕は、石にも生命(いのち)があると思うんだけどね。ま、それはいいとして…。」
「おいおいおい、今、とっても大事なことを言われたでしょ。」
昨日、牆壁瓦礫とのぶっつづきについて触れた。
人間や人間以外の動植物に対して、それを自分とぶっつづきの生命(いのち)として感じることは、同じ生物学的生命なので、難しくないように思われるかもしれない。
しかし、本当はそれは生命(いのち)ではないのだ。
生命(いのち)というのは、生物学的生命のことを言っているのではなく、万物を存在させ、万物を動かし、成長・発展させる、宇宙ぶっつづきの働き=妙用(みょうゆう)のことをいっているのである。
だから、当然、牆壁瓦礫にも生命(いのち)がある。
無生物にも生命(いのち)がないわけがない。
万物にある。
かつて、敏感な我々の先祖は、岩を磐境(いわさか)として神の依代(よりしろ)と感じた。
その神=迦微(かみ)こそ、生命(いのち)の別名なのである。
(初心者の方は「巨石信仰」で検索し、岩を信仰対象としている古い神社に行かれると良い。感じれば、理屈なしで、わかる)
そんな大事を、なんでもないことのように、フッと言われるのが師であった。