以前、故郷の菩提寺から法事の案内があった。
祖先の二百五十回忌の法要をするのだという。
我が耳を疑った?
それは一体どなたでしょうか?

このやり方だと、果てしなく法要を増やせることになり、どうも怪しい臭いがする。
当然、私は行かなかった。

行かない第一の理由は、そもそも私は毎日心から祈っており、基本的にわざわざの法要は必要ないと思っている、特に形式的なものは。

そして第二の理由は、私には祖先崇拝という発想がない。
よく、今の自分がいるのは父母のお蔭、そのまた祖父母のお蔭、そのまたまた曾祖父母のお蔭、…先祖代々のお蔭、と言う人がいるが、私はそう思っていない。
子どもを産むという生殖行為は、天から授かったものであり、間違っても、人間ごときが、私が作った、産んだ、育てた、などと思い上がらない方が良い。
性欲も、生殖能力も(最近の生殖医学を進歩させた人間の大脳の力も)、子どもの養育に必要な能力も、みんな授かったものである。
祖先のお蔭ではなく、もし崇拝するなら、その力を授け給うた天を崇拝した方が理に適っているのではなかろうか。
もし私が死んで祖先の側に回ったとしたら、自分の子孫に対して、おまえらが存在するのはオレのお蔭だ、オレを崇拝しろ、などという思い上がったことは絶対に要求しないし、思いもしない。

ただ、極めて“情緒的”な意味で、母さんが夜なべして手袋編んでくれた的な感謝はあっても良いと思う。
それも本当言うと、母親に手袋を編ませた力の元は母親のものではないんだけどね。

と私見を述べましたが、それでもどうしても祖先を崇拝したい方は、二百五十年なんて中途半端なことを言わないで、是非、かのアウストラロピテクスの代まで遡(さかのぼ)って崇拝してあげて下さい。

 

 

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