なつかない(なつきにくい)ペットというのがいる。
シマリスがなつきにくいという話はよく聞く。
テレビの動物番組では、シマウマがなつきにくいと言っていた。
また、カブトムシやクワガタといった昆虫類というのもなつきそうにない。
昔、“謎の生物”シーモンキーの飼育が流行ったことがあるが、本名はアルテミアという甲殻類の一種で、こういうものもなつかないであろう。
なんでこういう話をするかというと、なつかない(なつきにくい)ペットを飼うということは、なついてくれるという報酬は得られない、ということを意味するからだ。
そうすると、手間がかかるだけになる。
つまり、そのお世話には、一方的な、無償の愛が要求されることになるのだ。
ならば、そういうペットを飼うということは、ひとつの修行になり得る。
但し、例外が三つ。
ひとつは、ブリーダーとして飼って、繁殖させて儲ける、という場合。
ふたつめは、研究・観察対象として飼う場合。
こういう場合はペットではないな。
そしてみっつめは、そのなつかない(媚びない)姿に、孤高の自分を重ねて悦に入っている人の場合。
そこにあるのは自分の投影であって、ペットへの愛ではない。
そうして、人間はペットではないが、反抗期に入って何かと逆らって来る子どもや、治療者にテスティングを仕掛けて来る(わざと面倒臭い言動で試して来る)患者においても、これは近似性がある話だと思えて来る。
それでも愛せるか。
凡夫には無理そうだな。
よって祈ることになるのである。
ペットを超えた話になった。