ジャータカとは、釈尊の前世の物語。前生譚(ぜんしょうたん)とも言われ、このような輪廻転生を繰り返して、やがて釈尊として生まれた、というお話。
輪廻転生があるのかないのかは知らないが、ジャータカに込められた意味は掴むことができる。
近藤先生の講演録からの「金言を拾う その32」の前置きとして、3日間に渡って釈尊のジャータカをご紹介して来たが、今日はその3日目最終日。
【3】雪山童子(せっせんどうじ)の施身聞偈(せしんもんげ)の話。
出典:涅槃経(ねはんぎょう) 聖行品(しょうぎょうぼん)
ある菩薩が雪山(せっせん)(ヒマラヤ山脈)で修業を重ね、雪山童子と呼ばれていました。
その様子をご覧になっていた釈提桓因(しゃくだいかんいん)(帝釈天)が、修行の心が堅固であるかどうかを試すため、恐ろしい羅刹(らせつ)(悪鬼)に姿を変えて、童子に迫り、声高らかに「諸行無常(しょぎょうむじょう)」(諸行は無常なり)「是生滅法(ぜしょうめつほう)」(是(こ)れ生滅の法なり)と唱えました。
これは過去の仏たちがお説きになった仏教の真理を示す偈文(げもん)の前半部分でした。
これを聞いた童子は、この尊い教えを一体誰が唱えているのであろう、とあたりを見回しましたが、それらしき人は見当たりません。
ただ谷底に恐ろしい羅刹がいるばかりでした。
このような偈文を羅刹が唱えるわけがないと思いましたが、まわりを見ても誰もいないので、羅刹に尋ねました。
「言ったのは確かに私だが、この数日、何も食べていない。空腹で偈文どころではない。」
「それでは、何をお食べになりたいですか? 何でも差し上げましょう。」
「そうか。それほどまで言うのなら、私が食べるのは人間の生肉と生き血なのだ。今は飢えに泣いているような始末だ。」
「わかりました。それでは私の身体(からだ)を差し上げますから、どうか後の半偈をお聞かせ下さい。」
羅刹は厳(おごそ)かに後の半偈である「生滅滅已(しょうめつめつい)」(生滅を滅し已(おわ)りて)「寂滅為楽(じゃくめついらく)」(寂滅を楽となす)と唱えました。
童子はその偈文を聞くと、至るところの木の幹や石に書き付けました。
そして樹上より飛び降りて、その身を羅刹に捧げました。
その瞬間、羅刹は元の釈提桓因の姿に戻り、両手で童子の身体を受け止め、地上に下ろしました。
真実を究めようと修行し、半偈のために身を捨てた雪山童子とは、釈尊の前生(ぜんしょう)の姿だったのです。
(以上、この話にもいくつかのヴァリエーションが存在するが、今回は特に薬師寺のサイトの文章を下地にさせていただいた)
なんのために生れて
なにをして生きるのか
こたえれないままおわる
そんなのはいやだ
アンパンマンのマーチを待つまでもなく、それが我らの出生の本懐である。
それが体験・体得できたならば、今回授かった生命を大いに生きたことになり、最早いつ死んでも悔いはないのである。
長命、長寿も有り難いことではあるが、そもそも何のために授かった生命なのか。
雪山童子に「思わず」「躊躇なく」その身を差し出させたものもやはり童子を通して働く大いなる生命の力であった。
その本質については、明日の近藤先生の言葉を待とう。
【附記】この『雪山偈(せっせんげ)(諸行無常偈)』(諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)を和歌にしたのが「いろは歌」だと言われています。
ちなみに、「いろは歌」は、一説に空海の作とか、柿本人麻呂の作とか言われていますが、実際の作者はわかっていません。
いろはにほへと ちりぬるを 色は匂(にほ)へど 散りぬるを
花は艶(あで)やかに咲き誇っても、やがて散ってしまう
諸行無常(諸行は無常なり) 作られたものはすべて無常である
わかよたれそ つねならむ 我が世誰ぞ 常ならむ
私たちの人生も同じく無常です
是生滅法(是(こ)れ生滅の法なり) 生じては滅していくことを本性とする
うゐのおくやま けふこえて 有為(うい)の奥山 今日越えて
万物で満たされたこの迷いの山を今日こそ越えて
生滅滅已(生滅を滅し已(おわ)りて) 生滅することがなくなり
あさきゆめみし ゑひもせず 浅き夢見じ 酔ひもせず
浅くはかない夢を見て酔っていないで、真の安らぎを学びましょう
寂滅為楽(寂滅を楽となす) 静まっていることが安らぎである
※ちなみに、前回の「薩埵太子の捨身飼虎」の話と今回の「雪山童子の施身聞偈」の話は、法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)に描かれている。