「あの、有名な雪山童子(せっせんどうし)っていう話があるんですがね、仏典の中にね。それはね、羅刹(らせつ)(悪鬼)がいるんですね。そこへ道を求めて、童子が行くわけです。そうしますと羅刹がね、おまえがもしも自分の体を自分に食べさせれば、私は真理をおまえに与えてやろう、とこう言うわけです。この場合、問われているのは、その人の生命ですね。そのときに童子は自分のそれを施身(せしん)、つまり、自分の体を施(ほどこ)してね、そして羅刹の餌食(えじき)になろうとしたわけです。その途端に、羅刹帝釈天の形になって、そして、本当にその童子に、有名な句ですが、ひとつの真理を教えてくれたという譬(たと)えがありますねそういう意味で、私たちは、本当の人間になるためには、場合によれば、そういうことも必要な場合もあります。私はこれを非常に強く言うわけではありませんよ。…
で、今…いわゆる施身聞偈(せしんもんげ)というふうなことをちょっと申しあげましたけども、こういったことは、生命ということは、生命はなんのためにあるか、というふうなことを考える上での、ひとつの参考に申し上げましたけども、私は、これから少し、なんて言いますか、暴論を吐きます。私の率直な感じを申しあげるんですけど。私たちは生命を与えられたものだと思うんです、私は。その与えられた生命ですが、これの中には素晴らしい可能性が宿っていると私は思うんです。改めて我々のめいめいに与えられた生命の値打ちというものを、その可能性をじっくりこう考えてみる必要がありはしないか。これ、一回しかない。この一回しかない生命というものが与えられているということの重要性というものは非常に大事だと思う。その生命を、今までの我々の先輩は、今の施身聞偈の例にあるように、本当の真理を求めるためには投げ出しても構わない。ということは、つまり、我々の生命というものが何のためにあるかということを、ひとつ、示唆していると思うんですね。
よく不惜身命(ふしゃくしんみょう)、身命を惜しまず、身や命ですね、身命を惜しまず、という言葉があります。その後に続くのが、ただ身命を惜しめ、と(「不惜身命、但惜身命(たんじゃくしんみょう)」(道元『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』))。矛盾してますね。身命を惜しまず、ただ身命を惜しめ。ただ身命を惜しめ、の方が今の場合、注釈が必要だと思いますが、私の考えでは、この与えられた生命の素晴らしい可能性ということに気がつけば、その身命を本当に惜しんでも惜しんでも足りないもんじゃないかと、こんなふうに思うんですね。一人ひとりが自分の中に、自分の中に宿ってる、そういった生命の尊厳と尊さ、その猛烈な持っている可能性というものを本当に感じたときに、この一日を、この一瞬を、この生命が生きる一瞬というものを本当に生きるときに、永遠に通ずるものがあると思うんです。
だから、死をなんとかコントロールしよう。死んでも生きてやる。まあ、極端に言うとね。死んでも生きてやるってのはありますよ。…なんか知らんけど、人間ってのは、そういう形で、死っていうものを生によって塗りつぶそうとするわけ。だけども、それがひとつの生に対するこだわりですね。執着です。しかし、その生というもののね、何故執着するかというと、先ほど僕が言ったように、その人の生が本当に十分に生きられていない場合に、生を失うまいとするんじゃないかと。本当に自分が充実して生を生きて、生の意味を果たし、人間としての本当の生命を発展させて生きているときには、恐らく…坂本龍馬じゃないけども、途中で死んでも悔いがないだろうと思う。…
死ぬことが生きることで、生きることが死ぬことの場合もある。そういうふうなこともある、ということを言いたいんです、僕はね。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

近藤先生が「私はこれを非常に強く言うわけではありませんよ」とか「暴論を吐きます」と慎重に言葉を選びながらおっしゃっているが、
「一人ひとりが自分の中に、自分の中に宿ってる、そういった生命の尊厳と尊さ、その猛烈な持っている可能性というものを本当に感じたときに、この一日を、この一瞬を、この生命が生きる一瞬というものを本当に生きるときに、永遠に通ずるものがある」
その人の生が本当に十分に生きられていない場合に、生を失うまいとするんじゃないかと。本当に自分が充実して生を生きて、生の意味を果たし、人間としての本当の生命を発展させて生きているときには、恐らく…坂本龍馬じゃないけども、途中で死んでも悔いがないだろうと思う
死ぬことが生きることで、生きることが死ぬことの場合もある
から先生の真意がわかる。
そもそも何のために授かった生命かがわかり、その生命を生きたとき、我々の生命は永遠のものとなる。
そのためにはいつ死んでもかまわない。
反対に、
その人の生が十分に生きられていない場合に、その人は生に執着する。
即ち、生物学的に死ぬことによって、永遠の生命に生きることもあれば、
生物学的に生きることに執着することによって、永遠の生命を失うこともあるのである。
さらに話を進めれば、
「身命を惜しまず」、本当の意味で、身命を惜しまないということは、永遠の生命に生かされているという真実を体験するためであれば、この身命も惜しまないということであり、
また、「身命を惜しめ」、本当の意味で、身命を惜しむということは、
永遠の生命に生かされているという真実を体験するために、この身命を惜しんで生きよ、ということなのである。
即ち、「不惜身命(身命を惜しまず)」いうことと「惜身命(身命を惜しめ)」ということが、実は同じ方向性を持った言葉であったということになる。
そう思うと益々「不惜身命(しゅしゃくしんみょう)、但惜身命(たんじゃくしんみょう)」(身命を惜しまず、但し、身命を惜しめ)という言葉は、流石、道元と言わざるを得ない。

 

 

 

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