ルッキズム(lookism)、外見主義という言葉がある。
我々が他者からどう見えるか(見られるか)、あるいは、他者にどう見せたいか、ということに価値を置いていることは、紛れもない事実である。
そうでなければ、化粧品は売れないし、美容整形も流行らない。
雑誌の表紙は概ね、美男美女であり、わざわざブランド物を着て、スーパーカーに乗るのも他者に見せるためである。
ある女性は、新型コロナウイルス感染症の予防接種に行ったとき、注射をしてくれた女性看護師が、同性の眼から見ても美人であったために、痛さが半減したと言っていた。
そういう姿勢を軽佻浮薄と非難する人もいるが、そんな人でも桜は美しいと愛でるであろう。
外見的美観(何が外見上美しいと思うか)に個人差はあるが、外見上美しいと感じることに価値を置くのは、そんなにおかしいこととは思えない。
要は、外見主義が、外見至上主義になって来るか否かである。
至上では困る。
外見(looking)は、たくさんある要素(factors)のひとつに過ぎない。
例の「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌詞がある。
観ている(「見ている」ではない)のは外見ではない。
ドブネズミを純度100%のドブネズミさせているものを感じて「美しい」と言っているのである。
そういう感性を持っていれば、巷のルッキズムにそれほど目くじらを立てなくてもいいのではなかろうか。
それはそれとしてのルッキズムに付き合いながら、外見を引っぺがしたものを感じていればいいのである。