ドブネズミみたいに美しくなりたい
という歌があった。
これが
サクラみたいに美しくなりたい
だったらどうだろうか。
サクラは元々誰もが美しいと思っているので、一気に歌詞のインパクトはなくなってしまうだろう。
しかし、その深意には
サクラがサクラしているときが最も美しく
ドブネズミがドブネズミしているときが最も美しい
という美観がある。
これは
サクラは美しく
ドブネズミは醜い
とは異なる美観である。
サクラがサクラして美しく
ドブネズミがドブネズミして美しいのに
我々は人間は、自分しておらず、なんと醜いのだろう。
だから
ドブネズミがドブネズミして美しいように
私も私して美しくなりたい
という歌詞なのだ。
だから
ドブネズミがドブネズミしているとき
ドブネズミがドブネズミさせられているとき
ドブネズミを通して現れるやさしさもあたたかさも、この上なく純なものだから(そこに意識も努力もはからいもない)
ドブネズミみたいに誰よりもやさしく
ドブネズミみたいに何よりもあたたかく
という歌詞になるのである。
敢えてそこに、一般には醜いと思われているドブネズミを出して来る。
敢えて非常識を打ち出して、常識を打ち破り、真理に迫る。
ここらはかの一休宗純さんが得意とした表現である。
だから、周囲から否定され、顧みられず、蔑(さげす)まれている人たちがこの歌を好み、ドブネズミに自分を投影して、オレたちだって/ワタシたちだって美しいんだよっ!と主張するというのとは本質が異なる。
あなたがあなたしているとき
あなた絶対的に!美しいんです、ドブネズミのように。