最近は、日本的な庭のある家が少なくなった。
「日本庭園」と大袈裟に言うほどのものでなくても、昔の家には小さな庭があり、それを眺めているとき、娑婆の雑事を離れて、自分をリセットできる瞬間があった。
その庭を庭させているものと、私を私させているものとの共鳴の瞬間があったのである。
そう思うと、どんなに立派な日本庭園であっても、作庭者のはからいを感じるものは、眺めていてどこか鬱陶しくなって来るが、
名もなき民家の坪庭でも、作庭者がいつの間にか作らされた庭は、眺めていて大いに浄化されるものがある。
ここらは仏像の事情と大いに通じるところで、仏師のはからいを感じる仏像は、それが有名な大仏師によるものであっても、眺めていてゲンナリして来るが、
作者も知れぬ仏像でも、仏師が作らされた仏像には、大いに霊性を刺激される。
そう。蘊蓄的ではなく、また情緒的でもなく、霊性的に庭を味わいたいのである。
ここらの事情にご関心のある方には、立原正秋の『日本の庭』をお勧めする。
但し、所収の庭は当時のものであって、今は変わってしまったかもしれない。
庭もまた“生き物”なのである。