「松尾芭蕉が
『よく見れば 薺(なずな)花咲く 垣根かな』
と歌っています。ここで一番大事なのは、いつも何気なく見過ごしているのに、ふと気が付いてよく見ると、今まで気がつかなかったのにそこの垣根になずなが咲いていたという驚き。これはこの人の有名な
『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』
とも同じです。蛙が池にポンと飛び込んだ時に、これが実に深く、ピィーンと自分の胸に深く染み渡るその感動、それはこれまでは全く気がつかなかった気持ちでしょう。同じくよく挙げられる句ですけれども、
『山路来て 何やらゆかし すみれ草(ぐさ)』
山道をどんどん歩いて来て、くたびれてほっとひと休みした時に、ふっと見るとそこにすみれが咲いている。思いもかけない発見です。ただすみれと言えばすみれですが。そんなところにもすみれをすみれとして生き生きと活かしている力が私達の胸に伝わって来るのではないでしょうか。それに芭蕉は感動したと思うのです。これら全て素晴らしく元気に生き生きと活かされているものに、我々すべてを生かして下さる自然の大きな力を感じるのであります。これを仏と言い神と言い、何と言っても良いのです。概念なんかどうでもよろしい。問題は私達が活かされている有り難さを感じるかどうかです。この感じる力があれば、必ず、あなた方は何かぐぅっと本当に腹に落ちる、腑に落ちるものを感じることが出来るでしょう。頭でもなく理屈を言うのでもないのです。自分で『本当にこうだ』と感じるものがあるはずだと思うのです。
最後に、又一つ芭蕉の句、
『やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の聲(こえ)』
蝉は何十年も地中に沈潜して出て来る時を待っています。しかし一度出て来ても、その命は僅かなものです。人間の命と比べれば非常に僅かなものです。僅かだけれども、それを本当に『やがて死ぬ景色も見えず蝉の聲』でミーンミーンとないて、本当に精一杯生きている。それこそ本当に素晴らしい姿ではないでしょうか。そこに蝉の全存在を生かしている大きな力を感じるのです。蝉を生かして居る大きな力、そしてそれと同様に我々も生かされている大きな力、それをあなた方が自分も共感して自分も有り難く生かされていると感じたときに、初めてあなた方は宗教といわれているものに初めて目覚める、気が付くことになるのです。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)
その一生が長かろうと短かろうと関係ない。
自分を超えた大きな力によって自分の全存在を精一杯に生かされている瞬間の体験があるかないか、これがすべてなのです。
その体験がない一生であるならば、3万年生きても仕方がない。
その体験が一瞬でもあれば、もういつ死んでもいい。
だから、「やがて死ぬ景色」などどうでもいいのです。
これはかつての『不惜身命の世界』と同じ話になるのです。
ある辛い境遇にある方が念仏をして「本当に有り難いんです。」と二度繰り返しておっしゃいました。
そうです。その方には“本当に有り難い”体験の瞬間があったのです。
私たちはその体験をするために生命(いのち)を授かりました。その体験をするために生れて来たのです。
そして、その体験を授かって初めてあなたもアンパンマンに答えることができることになりますね。