今日も神社仏閣で、善男善女が「ああして下さい」「こうして下さい」と手を合わせて祈っている。
奉納された絵馬などを見ていると、「商売繁盛」「合格祈願」「恋愛成就」などなど、はっきり申し上げて、実に手前勝手な願いがいろいろと書かれている。
神さん、仏さんも、そんな人間の我欲にいちいち付き合っていたら、とっても大変であろう。
しかし、神社やお寺もしたたかなもので、そんな我欲を満たす御守りなどのラインアップを充実させ、参拝者を引き付けている。
個人的には、そういった御守りなどのグッズは、人寄せのための撒き餌みたいなもので、人々が集まって来たところで、やおらお坊さんや神主さんが出て来て、有り難い話をし、真実の世界へと導いて下さるというのが、本来の神社仏閣の姿ではないか、と思っている。
つまり、神社仏閣は、愚かな人間の我欲を満たすためにあるのではなく、
何がどうなろうとも、人間を超えた大きな力におまかせします、という姿勢を身に付けさせるためにあるのである。
だから
神社では「惟神(かむながら)」
仏閣では「南無」
という祈りになる。
どちらも、人間を超えた力のままにおまかせします、という意味だ。
そうして人間は、ただ大きな力に導かれるままに、催されるままに生きて行くしかない、ということを体感するのが神社仏閣参拝の意義だと私は思っている。
心だに 誠の道にかなひなば いのらずとても 神やまもらむ 菅原道真
(心さえ真実の道に叶っているならば、祈らなくても神さまが守って下さる)
我欲よりも真実の道が先にある。
まことに天神さまのおっしゃる通りである。