「謙虚さ」という言葉がある。
古今東西、その態度はひとつの徳目として取り上げられることが多い。

しかし私としては、どうしても徳目とは思えない。
何故ならば、「謙虚さ」というとき、私には、無理をして、頭を抑えている、あるいは、腰を低くしている姿しか思い浮かばないのである。
そう。
「謙虚さ」の前提として、人間の「傲慢さ」や「思い上がり」が臭う。
人間に「傲慢さ」や「思い上がり」があるからこそ、それを抑えることが徳目とされるのである。

よくハリウッド映画などで、謙虚に謙虚に生きて来た主人公が、侮辱され、蔑(さげす)まれ、遂には堪忍袋の緒が切れて爆発し、バカにして来た連中をブッ飛ばすという展開がよく出て来る。
本人も観客も、それで大いに溜飲を下げ、拍手喝采を送るのだ。
「おまえなんかに負けるもんか。」
「オレはこんなに強いんだ。」
それが本音である。
そんな人間の「傲慢さ」や「思い上がり」を抑えるのが「謙虚さ」なのである。
抑える手が緩めば、「傲慢さ」や「思い上がり」は簡単に顔を出す。
よくビジネス誌などで、「経営者には謙虚さが必要。」などと書いてある。
社長室に「謙虚」などと大書して飾っている人もいる。
しかしその実状はどうかというと、皆さん、よく御存知の通り。
偽善である。

それに比べ、「凡夫」の自覚となると、「謙虚さ」とはちょっと違って来る。
「凡夫」というのは、そもそもが本気で「バカ」で「クズ」で「愚か」なのである。
何も引いていない。
何も抑えていない。
ただその事実を認めるだけだ。
そしてその「凡夫」の自覚も、「他者」からの評価によるのではなく、内なる「霊性」によるものであり、自ずからそう思う、否応なしにそう感じるのである。
本当は「傲慢」で「思い上がっている」のに、そう思っていないようなフリをする「謙虚さ」とは根本的に異なる。

注意すべきは、「凡夫」の自覚のポーズのみ。
それだと、「謙虚さ」と同じ、偽善になっちゃうからね。
ただ素直に、自分が「凡夫」であることを認めてしまえば、小賢(こざか)しいことをしなくても、生きることはずっと楽になるんじゃないかな、と私は思っている。

 

 

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