前漢時代、淮南王・劉安(りゅうあん)が編纂させた思想書『淮南子(えなんじ/わいなんし)』に
「夫(そ)れ陰徳ある者は必ず陽報有り」
とある。
一般に「目に見えないところで良い行いをしている者には、必ず目に見えるところで良い報いを受けることができる」と解されているが、私に言わせれば、これは誤った人生訓の代表みたいな言葉である。
たまたまこの言葉を礼讃するような記事を読んだので、ここで触れておく気になった。
誤った格言は正しておかなければ、後世の者が迷うことになる。
まず、「わざと」人の目につかないところで良い行いをするのである。
この意図的に「わざと」というところが気持ちが悪い。
所詮は、「自力」であり、はからいなのである。
意図的にやった善行は、必ず、隙があったら、他人に言いたくてたまらなくなる。
そして、そっと、遠慮しぃしぃ、謙遜しながら、周囲に漏らして行く。
私はこんなに良いことをしたのだと。
ここに偽善性と虚栄心が臭う。
それに対し、その人を通して働く力によって「思わず」誰かのために何かをしている人は、人目に立つか立たないかも関係ないし、そもそも自分がやっているという意識がない。
意識がないため記憶に残らない場合もある。
よって自ら他人に話すことはまずない。
そこに「他力」の尊さがある。
そして、「自力」で頑張ってやった人は、陽報を求めるのである。
どうしても報いがほしいなら、せめて人目に立たない陰報でいいのに、人目に立つ陽報の方を求めるのだ。
それは称賛ですか?名声ですか?金ですか?地位ですか?
ここがまた強欲で虚栄心に満ちたところである。
それに対し、「他力」でやった人、やらされた人は、まず自分がやったという意識がないため、何の報いも求めない。
もし何かを感じるとすれば、自分を通して働く力によってその行為をさせられたこと、それ自体が有り難いことであるため、「他力」によってさせていただけたこと、それ自体が既に報いになっているとも言えるのだ。
というわけで、誤った人生訓にご注意を。
それを観破る眼も育てて行きましょう。