話していて、その人本来の姿が観えるときがある。
幻視でもなく
錯視でもなく
目で見ているのでもなく
とにかく観えるのである。
これは体験してみないとわからないが
観えるものはしょうがないのである。
しかも、私の意図で観えているわけではないので
それがいつ観えるのかも私にはわからない。
しかし、それが観えないことにはセラピーが始まらない。
何故ならば、私のセラピーは、私がクライアントを意図的にどこかへ連れて行くわけではなく
クライアントの中に本来のその人がいるのであるから
クライアントが本来のその人を取り戻せるように応援して行くだけなのである。
答えが観えている
進む方向が観えている
というのは実に有り難いことである。
それが目標であるから
ただ適応させるだの
学校に行かせるだの
会社に行かせるだの
うまいこと生きて行けるようにするだの
そんなことのためにセラピーを行っているわけではない。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かったのだから
真の自己が観えないセラピーが成立するはずはないのである。
近藤先生と話して来たことの真意が、今になってわかってくるのである。