世の中には、戒あるいは戒律というものがある。
有名なものとしては、まずキリスト教のモーゼの「十戒」がある。
このうち、最初の三つは神のために守る戒律であり、残りの七つは人間との関係において守る戒律である。
例えば、その後半七つを挙げてみよう。
4.汝(なんぢ)の父母(ちちはは)を敬へ
5.汝殺すなかれ
6.汝姦淫(かんいん)するなかれ
7.汝盗むなかれ
8.汝その隣人(となり)に對(たい)して虚妄(いつわり)の證據(あかし)をたつるなかれ
9.汝その隣人の家を貪(むさぼ)るなかれ
10.汝その隣人の妻およびその僕(しもべ)婢(しもめ)牛驢馬(ろば)ならびに凡(すべ)て汝の隣人の所有(もちもの)を貪るなかれ
とある。(『舊新約聖書』日本聖書協会)
さて、これら全部を完全に守れる人がどこにいるというのであろうか?
また、仏教では、在俗信者が守るべきものとして「五戒」がある。
1.不殺生(ふせっしょう)
2.不偸盗(ふちゅうとう)
3.不邪淫(ふじゃいん)
4.不妄語
5.不飲酒(ふおんじゅ)
上記の十戒と結構重なることがわかる。
さて、これら全部を完全に守っている人が一体どこにいるのであろうか?
さらに出家者が守るべき戒律として、比丘(びく)(男性出家者)は二百五十戒、比丘尼(びくに)(女性出家者)は三百四十八戒があるというから、段々クラクラしてくる。
中には鈍感で思い上がりやすい人がいて、この「十戒」なら、この「五戒」なら、オレは(わたしは)ちゃんと守れている、守れる、と簡単におっしゃる。
例えば、一瞬でも性欲や物欲を感じたことのない人間が果たしているのだろうか。実際に行動に移さなければセーフという料簡(りょうけん)が甚だ甘いのである。
さらに、私のように、人間の無意識を相手にしている立場からすると、うまいこと意識上のことをちょろまかしても、その皮を一枚剥がした無意識では、破戒=戒律破りのオンパレードである。
だから、人間のことを「偽善者」といい、「凡夫」というのである。
ここで私も気がついた。
戒や戒律が示されるのは、それを守ることは、おまえらには無理だ、自分には無理だ、ということを愚かな人間どもに徹底的に思い知らせるためなのだと。
そうなると、我々が進む道はひとつしかなくなる。
自分でなんとかできないのだから、自分を超えたものにすがるしかない、おまかせするしかない。
それが「御心(みこころ)のままになさしめ給え」であり、「南無」なのである。
そこを踏まえた上で、先の「十戒」「五戒」に戻るならば、
(どうせ守れないから好き放題やっていいよ、ということではなくて)
どうせおまえらにできないことはわかっているけれど、できないなりに、できる範囲ではやってみなさいよ、
というのが戒律の意味だったのである。
蛇皮を脱ぐ 罪なきものは なかりけり