「子どもって寂しいもんでね。子どもって無力なもんですよ、ね。何もだからって猫可愛がりするわけじゃない、僕はそう言ってるんじゃない、ね。そこで、何故、無力か、何故ね、心細いかっていうと、本当にどうして生きて行ったら一番良いか、わからないんだもの、ね。そういう意味で、その人の場合を言いますと、そういうことが、何か、とてもね、子どもは無力で、そして非常に弱いから、親から離されて、親から拒絶されたり、親に否定されたり、親にかまわれなくなったりするってことはね、こりゃあね、漠然としたものだけれども、生きて行けないんじゃないっていうね、いう感じに非常に近づいたようなものだと思う、ね。…
そういうふうなことでね、子どもっていうものを、僕はまあ、いろいろとこう機会があって、見つめることが多いんだけども、子どもに、非常にね、自分のね、生存に関しての悲鳴みたいなね、非常な不安、不安っていうのは、自分のね、もっと深いところで、生物としてのね、生存できるかできないかっていうふうなね、そういう不安があるんじゃないかと思うんですね。それがただおっぱいを飲みたいというふうなね、切実な食物に対するね、飢えとかいうだけでなくてね、そういうものがね、僕はあるような気がしますね。
そこで、外に出てもね、どうしていいかといろいろ考えるわけですよ。まず人に良い感じを与えることがですね、非常に自分の生活の安全というものとくっついてる。そのために、どうしたらいいかと言えば、微笑んだり、少しお世辞を言ったり。…そういう調子で自分をやってたわけですね。ところがね、それをやっていながら、何かね、相手にホントに好かれてない、という感じがするわけ。もしそれがホントにそれでもってうまく成功して好かれてると信じてるならば、何もそういうふうにね、ビクビクしなくて済んだと。だけども、根本には不安があるわけね。…
そういう意味で…どうも、あなたは子どものときから、要するに、自分が人に好かれることが、自分の生存っていうか、生きて行くことに、欠くべからざることだというふうに考えているわけだね、と言ったんですよね。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)
これは私が先日書いた『『あ、はい』の憂鬱』や『断崖絶壁』の根底をなすお話です。
やっぱり本当のことがわかっている人が語って下さると非常にわかりやすい。
自分の生存の不安を晴らすために、「人に好かれる」=「他者評価の奴隷になる」ことしか思い付かず、それでいながら、いくら頑張って他者評価を得ても、その生存の不安がなくならないところに、この問題の眼目があります。
いくら外から固めて安心を得ようとしても、いつまで経っても中身がからっぽじゃあ、安心できるわけがないですよね。
その間違いに気づくのが第一歩。
大切な第一歩です。
そして第2歩の話は、また次回の『金言を拾う』で取り上げましょう。