かつて近藤先生が年に一回、精神療法懇話会という場で若手の精神科医/臨床心理士の指導をされていた。
一人の患者さんの治療経過の発表と質疑応答に三時間ほどかけ、一日に二人の発表だけだったと記憶しており、丁寧に検討する会であったと思う。
そんな中で、参加する度に何より楽しみだったのが、近藤先生の最後のコメントであった。
まず若手が治療経過を発表をし、その後、フロアとの質疑応答に入る。
続いて、コメンテーター役の複数の中堅の精神科医/臨床心理士がコメントし、その後、ベテランの精神科医がコメントする。
そうして、オオトリに近藤先生がコメントされる、という流れであった。
私が楽しみにしていたのは、その近藤先生の最後のコメントで、それまでの他のコメントを全てひっくり返し、人間の本質、サイコセラピーの本質をズバリと示される様子は、毎回、実に痛快であり、やっぱり格が違うなぁ、と唸らされた。
当時、既に近藤先生の許にも通っていたので、会での近藤先生のコメントについてディスカッションするのも大変楽しみであった。
もちろん最初のうちは、想像を遥かに絶する先生の発言にただ感動し、唸るしかなかったが、
段々と自分だったらどうコメントするかを考えるようになり、自分のコメントと近藤先生のコメントとの差が、自分にとっての成長の道しるべとなって行った。
そうこうするうちに気づいたのが、近藤先生は観抜いたことの全てをコメントされているわけではない、ということであった。
私でさえ気がつく発表者やコメント提供者の問題や成長課題について、近藤先生が触れられないことが何度もあった。
「先生はあの人のこういう面に気づかれていたのに、触れられませんでしたね。」
というと、うんうんと応じられ、さらに私が
「目の前のもう一歩の成長のためには、何を言うかよりも何を言わないかの方が重要なんですね。」
と言うと、
「よくわかったね。」
と笑顔でおっしゃられた。
そんなやりとりが数え切れないほどあり、今から思えば、発表者やコメント提供者だけでなく、私のこともそうやって子どもを諭すように育てて下さったのだなぁ、としみじみ思う。
それからは、近藤先生が会で、気づいておられながらおっしゃられなかった点について、私が自分の領解(りょうげ)をお話して、(禅でいう)点検をしていただくことが恒例となった。
そうして段々一致する点が増えて行くことに、大きな成長の喜びがあった。
しかし、残念ながら、近藤先生が遷化されるまでに先生の境地に到達することは遥かに及ばなかった。
それでも、今もまだ私の中での近藤先生との問答は続いており、死ぬまで伸びしろはまだまだあるんじゃないかと思っている。
気づいておられながらも、あるいは、体験しておられながらも、当時の私にはおっしゃられなかったこと、それを解き明かして行くことが、今の私にとっては無上の楽しみである。