かの『論語』第六 雍也(ようや)篇に
「子(し)の曰(のたま)わく、これを知る者はこれを好む者に如(し)かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」
とある。
有名な文章であり、一般には
「先生が言われた、『知っているというのは、好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない。』」(金谷治訳注『論語』岩波文庫)
と解されている。
これで「ああ、楽しむ方が好むのよりも上なのね。」くらいに解して疑問に思わない人はそれでいいのであるが、私は引っかかった。
それでは「好む」と「楽しむ」の違いが明確ではないではないか。
ふわっとした解釈で済ませるのなら、それでいいけれど、わざわざ孔子がそう言うからには必ずそこに何らかの深意がある。
こういうのが『論語』や『聖書』や仏典などの聖典の言葉の読み方である、と私は思っている。
通俗的・表面的解釈ではもったいない、深意を明らかにしなければ意味がない。
そして思う。
「好む」際に喜んでいるのは、我々の「我(が)」である。
主観的に「好き」なのだ。
「好む」とは「我」が喜ぶことをいう。
それをすると「我」が喜ぶことを「好む」というのだ。
それに対して、「楽しむ」際に喜んでいるのは、我々の「我」ではなく、我々の「生命(いのち)」である。
「楽しむ」とは「生命(いのち)」が喜ぶことをいう。
人間ひとりの小さな「我」が喜んでいるのではなく、「生命(いのち)」が喜ぶとは、人間ひとりの「生命(いのち)」だけではなく、大きな「生命(いのち)」が、宇宙の「生命(いのち)」が喜ぶことをいう。
何故ならば、それをすることが、その人に天から与えられたミッションだからである。
だから、それをすると宇宙の「生命(いのち)」が喜ぶ。
それを「楽しむ」という。
そして仏教では、同じ「楽しむ」ことでも、宇宙の「生命(いのち)」が喜ぶように「楽しむ」ことを「大楽(だいらく)」という。
そういう言葉が既に用意されていることに驚く。
ここまで来てようやく
「これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」
の深意が観えて来るのである。
しかし、これもまた現時点での私の体験的解釈に過ぎない。
私にさらなる成長が与えられれば、また次の深意への道が開かれるであろう。
そうやって深めて行くのが、聖典の言葉の読み方なのである。