「己(おのれ)の欲せざる所は人に施すこと勿(なか)れ」
(自分がしてほしくないことは他人にするな)
『論語』にある孔子の言葉である。
また、『新約聖書』には
「己の欲する所を人に施せ」
(自分がしてほしいことは他人にもしてあげなさい)
とある。
ああ、孔子もイエスも優しいなぁ、とつくづく思う。
凡夫や迷える子羊にちょうど良い、初歩的指導である。
世俗的には、相手の主観=我(神経症的自我)が喜ぶことをしてあげるのは良いことであり、同様に、相手の主観=我(神経症的自我)が喜ばないことはしないでいてあげるのも良いことである。
昔、『接遇』や『顧客サービス』『顧客満足』の講義を聴いたことがあるが、そんな話のオンパレードであった。
注意するべきは、そこで喜ぶのはいつも、その人の主観=我(神経症的自我)である。
まぁまぁ、初歩的にはそれで良いのかもしれない。
学歴が自慢の人には学歴を褒め、収入が自分の人は収入を褒め、社会的地位が自慢の人には社会的地位を褒めてあげる。
(学歴に引け目のある人の前では学歴の話題は出さないし、収入に引け目のある人の前では収入の話題は出さないし、社会的地位に引け目のある人の前では社会的地位の話は出さないのである)
そうすると自分は「善い人」になれるし、たいそう喜ばれる。
これを「我の満足」というのだ。
それ以上でも以下でも以外でもない。
例えば、暑い日にアルコール依存症の人によく冷えたビールを出してあげると喜ばれるかもしれない。
しかし、その行為はその人を破壊する。
また、虚栄心に満ちた人をよいしょしてあげると、実に嬉しそうな顔をして喜び、さらに思い上がった言動を垂れ流すようになる。
そんな虚栄心を強化してあげてどうする。
私たちは、その人の主観=我(神経症的自我)を喜ばせるのではなく、その人の生命(いのち)を喜ばせなければならない。
そこを間違えてはならない。
自分がどれだけあなたの存在を大切に思っているのか、そしてそのために自分を破壊するような飲酒はやめてほしいと願っているか、と思いを込めて伝えたならば、
あるいは、そんな自慢話をしなくたって、知ったかぶりをしなくたって、あなたは存在しているだけで尊いんですよ、ということを心から伝えたならば、
相手の主観=我(神経症的自我)は面白くないかもしれない、あるいはポカンとしているだけかもしれない。
けれども、本人さえも気づいていないその人の生命(いのち)は、実は喜んでいるかもしれない。
そこで初めて初歩を脱する。
過日、武田信玄によるという
「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」
という言葉を教わった。
小善が相手の主観=我(神経症的自我)を喜ばせることであり、
大善が相手の生命(いのち)を喜ばせることである。
従って、小善が実は大悪であったり、大善が非情に見えたりすることがあるのである。
きっと孔子もイエスも、初歩を脱した人たちに対しては
「その人の生命(いのち)の喜ばざるところを施すこと勿れ。」
「その人の生命(いのち)の喜ぶところを施せ。」
と言われるであろう。