法事というのは余り好きではない。
正確に言うならば、形式としての法事、虚礼としての法事が好きではないのである。
もっと言うと、わざわざ時間とエネルギーとお金を割いて、義務と義理を果たしに来てやりました、というのが嫌いなのだ。
そういう連中は法事に参加しても、ビール飲んで料理喰って与太話をして帰るだけで、大抵、故人の話は申し訳程度である。
お坊さんの話も、無常を感じるには絶好の機会なので、是非有り難い話をしていただきたいのであるが、なかなかそういう話に出逢わない(失礼)。
それだったら、形式的・.虚礼的な法事には出席せずとも、ふと故人のことを思い出したり、誰かと故人のエピソードに華を咲かせる方が、よっぽど故人を悼んでいるのではないか、と思っている。
そして、その人がこの世に存在した意味や役割、ミッションについて、思いを馳せたり語ったりすることができたら、それ以上の追悼があるだろうか。
人それぞれいろんな人生があり、中には、流産した子もいる、百十歳過ぎまで生きた人もいる、人知れずひっそりと生きて死んだ人もいる、ノーベル賞や金メダルを取った人もいる。
それぞれに意味と役割、ミッションがある。
生まれ生まれ生まれ生まれて 生の始めに尊く
死に死に死に死んで 死の終わりに尊し
(空海さん、勝手にアレンジしました。ごめんなさい)
そんなことが感じられる法事なら、是非行ってみたいと思う。