昔、倫理の授業で、儒教の「中庸」について習った。
「行き過ぎもなく、不足もなく、ほどよいところ」のようなことを教師が解説したのを覚えている。
なんだか会社で世慣れた上司が、とんがった後輩に対して「君も『中庸』ということを知りたまえ。」と言っているような光景が浮かび、儒教も随分ペラいもんだな、という感想を抱いた。
しかし後に、自分でちゃんと儒教を勉強してみようと思い、『論語』にはじまり『中庸』も読んでみた。
そうして近藤先生の指導も受けるうちに、「中庸」の真の姿が観えて来た。
「中」は、その形の通り、ものの真ん中を貫いていることを示している。
「あたる」とよむのだ。
それで明確になった。
「中庸」とは「ど真ん中に当たる」という意味であり、あなたはあなたのど真ん中を生き、わたしはわたしのど真ん中を生きることを「中庸」というのである。
「全体の平均」とか「ほどほどのところ」を意味するものではない。
ここでオイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』(岩波文庫)を思い出した。
ドイツ人の彼が在日中に師から学んだのは、「百発百中」ではなく、「百発成功」の弓術であった。
「百発百中」は、ただ的に当てるだけのテクニックであり、「百発成功」は、弓術を通じて、己のど真ん中を生きる、ど真ん中を生かされて生きて行く、という生き方を身につけることであった。
『日本の弓術』は禅の本であるが、同じことを言っていたのだ。
後日、精神分析に“good enough mother”という言葉があることを知り、またここでもか、と思った。
「ほど良い母親」というのである。
子育てに完璧を求めて苦しんでいる母親に対しては救いになる言葉かもしれないが、私に言わせれば、どうも浅い。
我々がはからって子育てをすれば、間違いなく“bad mother”になるに決まっており、我々を通して働く力におまかせして母親を生きることができれば、それは“good mother”(良い母親)どころか、生命(いのち)を育てる“sacred mother”(聖なる母親)になるに決まっている。
それが母親としての「ど真ん中」なのであった。
ど真ん中を生きましょ、あなたもわたしも。