近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目に続いて15回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」に入り、終盤となってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(2)

さて、この様な観察を横糸とするならば、分析関係は患者の自由連想(広く夢や日常生活に於ける反応を含む)を縦糸として発展して行くのである。
自由連想は患者が自分の心の中に浮んで来ることを、どんなつまらないことでも、心に浮んで来たままに、出来るだけそのままに表現して行くことである。これは、必ずしも自由連想が患者の心的事実のすべてを完全に、忠実に現わしていると言うことではない。
しかし、患者の日常生活に於ける表現に比べれば、比較的に利害関係や、一定の目的に支配されることが少ないという意味で、患者の心的現実により近いということがある。内容的にも、思想や経験、想像、期待、恐怖、不安、安心、失望等の感情等が表出されるのであるが、この間にあって、言い澱(よど)み、省略し、沈黙し、回避するものも多いわけである。
しかし、患者が自分の語っているものの内的意味について気づいていない時でも、治療家は自分の知識と訓練と直観と、自己の自由連想等を動員して、患者の様々な表現や、表現しないところから次第に脉絡(みゃくらく)を発見し、そこに流れている様々な傾向を理解して行くことが出来る。
この時に要せられるのは、観察と理解に関しての安定した忍耐深い態度である。十分理解出来る事ではあるが、治療者にある神経症的な要求によって、ともすれば焦燥感に駆られて、時期尚早な解釈を与えたり、傾聴するのみ倦(う)んだり、患者の変化のないのに無力感や罪悪感を感じたりして、その結果、分析状況の発展を攪乱(かくらん)することの危険がある。
次に重要なのは、様々な神経症的潮流の間に現れる患者の「真の自己」表現であるところの健康な諸傾向に対する公平な注意深い観察である。Horney 自身は、著書に於ては分析の後期に於ける場合を除いてこのことについて明記していないが、その講義に於て強調していたものである。こ
の事は分析に於ける観察が、単に病的なものの観察ではないことが理解出来よう。
第3に留意されなくてはならない事は、分析の全過程を通じて言い得ることであるが、分析者が、この様な観察と理解にもとづいて形成して行く患者の神経症的傾向及び性格に関する心像は、一つの作業仮説であり、いつも患者の心的事実についての新しい発見によって訂正或は補足され、生きた個性的存在としての患者の性格構造に近づいて行かなければならないと言う事である。

 

上記を「THE精神分析における自由連想による治療」の話と狭く取ってしまうと、学べることが少なくなってしまうが、
人間が人間に関わるときの基本的姿勢として受け止めれば、学ぶことはたくさんある。
例えば、後半の3点について、
(1)相手を理解するときの忍耐深い態度。人間を深く理解するには時間も手間もかかる。
勉強会でも「忍耐強い」でなく「忍耐深い」という表現を使っていることへの指摘があったが、確かに「忍耐強い」では自力になり(頑張って耐える)、「忍耐深い」では他力となる(自分を通して働く力によって自ずから耐えられる)。どうしても「忍耐づよい」という表現が使いたければ「忍耐勁い」が相応しい。そんなことも勉強会では取り上げている。
(2)相手の「仮幻の自己」(闇の部分、後天的な病んだ部分)への着目だけでなく、相手の「真の自己」(光の部分、本来の自分の部分)への着目。
(3)初期の先入観で相手を決めつけず、相手のことがわかればわかるほど、その度毎に相手の「仮幻の自己」の理解も「真の自己」の理解も修正していく。
これらは深い人間理解のための基本的態度として、誰にとっても大いに勉強になると思う。

 

 

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